「悪かったわ、なんだかよく分からない事で気弱になってる自分が馬鹿らしくって」
思わず笑ってしまった、と目尻の涙を拭いながら謝るシオを見て、呆気に取られていたユールも気負っていた両肩を下げた。そしてこんな事を言う。
「シオでも子供みたいに笑うんだな」
初めて見た、と妙な関心の仕方をされ、子供みたいに、と言われバツが悪くなって前髪を直すフリをして誤魔化す。
「あなたが笑わせるからよ」
「俺のせいか」
「そうよ」
「それで気弱になっていたのが終わったのなら良かった」
役に立てたのなら何より、という響きには微笑む。本当にこの男は。普段は朴訥でありながら、不意にその心の内を広げる。本人も意識しない奥底からの真っ当な生き方は、飾り気のない人柄そのもの。
だから自分はこの人を選ぶ。
そのために。
「結婚について話をしようと思ってきたの。でもそれをどう話したら良いのか分からなくて、ちょっと悩んでいたら、あなたに先を越されたんだわ。あんまり簡単に言うんだもの。じゃあ私は?って思ったら腹が立って、つい、当たり散らしてしまって」
もう一度「悪かったわ」と頭を下げるシオの言葉を静かに受け入れながら、ユールがわずかに首を傾げる。
「何を悩むことが?」
「そうね、それも聞いて欲しいわ。夫婦になる前に、あなたの答えが欲しいのよ」
一人で悩むなんて馬鹿らしい。たった今、シオが成せなかった求婚をあっさりと成せてしまう人間を目の前にして、そう思う。自分のためらいなんて、彼にとっては砂粒ほどの重みもない。それが欲しい、と訴えるシオに向き合って、ユールは口を開いた。
「ええと、それは俺にわかることだろうか」
俺は頭が良くないから、と言う彼には首を振る。
「本当に頭が良くない人間は、村の喜び事を自分のことのように喜んだりしないし、他所の家族の消息を気にかけることもないし、気弱が終わって良かった、とか、悩みはなんだとか、そういう心遣いはしないわよ」
「ええと」
「それができるあなたを、頭が悪い人間だなんて思っていないわ。私はね。……もし他の人間がそれを言ってたとしたら、問答無用で重傷者にして病院から出られなくしてやるわ」
シオなら口だけでなく本当にそれをやってのける事はもうユールも理解している。少し演技がかった口ぶりにも困ったように眉を顰める。
「それは、あまり良くないんじゃないか。その、シオにとっても」
「そう言ってくれるあなただから、そういうあなたの考えが聞きたいのよ」
俺は鈍臭いから、と言うのも、頭が良くないから、と言うのも、自虐でも引け目でもなく。ただありのままの自分を受け入れ、それが自分だからと曝け出しているだけ。もうとっくにシオだって彼の生き様を受け入れているのだ。
「わかった」
「良かったわ。私の分からないことは二つ。いきなりあなたが夫婦になろうと言い出したことよ」
「いきなり、だったか?」
「まあ、この私がちょっと取り乱してしまったくらいにはね」
先ほどのやりとりを思い起こせば、有無もない。
「今までそんな話は一切しなかったでしょう」
「それは……、シオは多分、母親の消息がわかるまではそんな気にはならないだろうと思っていたから。言うつもりもなかった」
それは意外だ。
「私、そんなに母さんのことで必死だったかしら」
自覚はなくても傍目にはそう見えていたのだろうか。村ではそれよりも「妹が一人前になるまでは」の覚悟の方が知れ渡っていたわけだが。
「ああ、いや、俺がそう思っていただけだ」
つまり、とユールが俯いた。
「俺なら多分、お爺かお婆が消息不明になったとして、事件にしろ事故にしろ、それが解決するまではそのことが気がかりで、新しい家族を持とうとか、そういう気にはならないと思って」
「なるほどね。まあ分からないでもないわ」
ユールには帰る場所があって帰りを待つ人がいる。牧場で働く仲間の誰であれ、そのような状況になれば確かにそのことで頭が一杯にはなるだろう。
「それが解決したからもう言っても良いだろう、ってこと?」
だとしたらもうずっと前から、シオと夫婦になることを考えていたことになる。
結婚に現実味を持てなかった自分とは大分心構えが違うな、と思えばやはりもう一つの答えを聞きたくなる。小娘のような甘っちょろい問い。世間知らずのフリをして?あるいは手練手管の冷やかしのように?この歳になってもまだ欲しがるのは満たされていないのか、成熟が足りないのか。
そう迷ったシオにユールは、いや、と強めに否定の音を聞かせた。
そして顔を上げる。
「どうしても今日言いたかったのは、シオの母さんが帰ってきた、って村の人たちが喜んでいるのを見たからだ」
オレガノの嬉しそうな様子、それを取り囲む村の男たちの楽しげな雰囲気、村の女たちが代わる代わる豪快に物を買い占め、ご祝儀だと言って陽気に大枚を放り込んでいく。
「村全部が一人の帰還を喜んでいる中で、俺だけがよそ者だった」
「それは」
仕方がないんじゃないの、と言うシオに、わかってる、とユールは微笑んだ。
「除け者じゃなくて、よそ者、だ。わかってる。むしろ、よそ者の俺にも分け隔てなくそれを与えてくれたのも、すごく感動した。だから余計に考えた。この先もシオとは付き合っていくこともできる、何も変わらないんだろうって思う。今までならそれでいいと思っていたけど」
今までなら。
今までは。
今は。
「同じようにシオが長く村を開けて、何かの功績を持ち帰って、そうして村を上げての祝い事に招かれた俺は、やっぱりよそ者でしかないんだって」
気づいたら。
たまらない寂寥感に襲われた。空洞になった荷箱を抱え上げ、重さのないそれを荷台に積み上げる単純作業。ただただ荷台を埋めていく。今日の箱の中身を一つ一つ思い起こして片付けるだけの自分の目の前に、シオが現れて。
向かい合ったその姿を見てしまったらもう。
「言ってしまっていた」
そんな胸の内を告白されてシオは言葉に詰まった。
「確かに、いきなりだったかもしれない」
迷惑ならすまなかった、と大真面目に謝られては慌てる。
「別に迷惑なんて思ってないけど」
私だってその話のつもりだったんだし、と言うのには、そうだったか、と頷いて。
じゃあ手順か、ドラゴンを倒す話が先だったか、と言われて、もうそれは良いんだってば!と顔を赤くする。
「蒸し返すな、人の醜態を!」
「す、すまない」
「私はただ、結婚の意味がわからなくて」
言い出せなかったのは、動機があまりにも自分勝手にすぎる、との躊躇い。ケジメをつけるため。母の名と、妹の成長の証として宣言するそれにユールを巻き込むことに、大義名分を欲していた。
そんなシオの話を黙って聞いていたユールは、それの何がいけないんだ?と言った。
「俺だって結婚がしたいから夫婦になろうと言ったわけじゃない。シオが良いから結婚しようと思っただけだ」
シオもそうじゃないのか、と問う。結婚が前提じゃない。ユールが良いと思ったから結婚するのだ、と考えて納得する。
「そんなことで良いの」
「俺はむしろ、シオのケジメの付け方に俺を選んだくれたことが嬉しい」
多くの男の中から。これまでに求婚されてきた過去を過去にして、ケジメをつける。過去の男たちがシオのもとを去ったのは結婚がしたかったんだ、と言うユール。シオとは結婚できないから去った。それだけ。
「俺は結婚するならシオが良いと思った。たとえ一緒に暮らすとなっても、俺は行商で家を空ける。シオは冒険家として家を空けるだろう?お互いにそばにいられない事の方が多くても夫婦だってだけで、家の中にもう一人の存在がある。それを安心として暮らしていける。一人じゃない、家の中にいないいつ帰るかもわからないもう一人と一緒に暮らしているんだ。それが結婚することの意味だと思う」
「それだけ?」
「それだけだ」
その相手はシオが良い。シオでなければ、結婚なんて意味がない。
いつになく饒舌にシオを口説く男に、かまととぶるでもなく魔性の女を装うまでもなく、自然に口をついて出た問い。
「なぜ私なの?」