女と男の見栄も外聞も役立たず、自然にこぼれた言葉に返るのは平熱。
ユールは淡々と遠い日の話をする。
「俺は初めてシオにあった時のことを今でもよく思い出す」
初めてこの村を紹介されて、行商に訪れたのはちょうど今頃の季節。
まずは下の村での商いを許されて、細々とした日用品を広げていた。村の男たちが賑やかしに集まる中、女の姿もちらほらと散見されるものの売上は芳しくなく。
まあ初めての土地での商いならこんなものか、と午後の昼下がりに手持ち無沙汰になって売上の計上を確認がてら帳簿をつけていて金額が合わないことに気がついた。やや多い。
10名にも満たない客足だったが、一時、やりとりが集中したことがあった。あの時に誰かに釣り銭を渡し損ねている。
そう気がついたユールは思い当たる客数名を探して村を歩き回った。確認の最後の一人は上の村の女性。なれない山道を登っていけば、ちょうどそこで行き合ったのがシオだった。幼い妹が使いやすいような小ぶりの鍋はないか、と言っていたのを覚えている。
釣り銭を渡し間違えた、と言えば、すぐに財布の中身をあらためて、そうみたいね、と古くなって色の悪い銅貨を出した。それで5ゴールド銅貨と50ゴールド銅貨を間違えて渡してしまっていたことが確認できた。上の女性は気性が荒いから気をつけなよ、と下の村を走り回っていた時に散々言われていたことを思い出し、その場で土下座を仕掛けた時。
「私の方も気が付かなかったんだもの、気にしないで」
とシオは言った。
てっきり怒声の一つでも飛んでくるもの、と覚悟していたユールは呆気に取られた。そこに重なるのは労いの言葉。
「かえって手間をかけさせて悪かったわ」
渡し間違えた人間を探し回った事、こんな村の上の方まで来させてしまった事、それを労った上で、手間賃としてそれは取っておいて、なんてことを言う。
そんな昔の話。
それを聞かされて、シオは瞬く。
「それが何か?当たり前のことだと思うけど」
「確かに、シオには当たり前のことかもしれない。でもその当たり前のことが敵わないことだって多い。特に、こんな外回りばかりで商売をしている身の上では」
店舗を構えていない流しの商人たちの世界は、荒れ者も多い。買い付けはもちろん、売りでも荒っぽいやり取りは日常茶飯事だ。だから見た目だけでも肝が据わっているように見える自分がそれを担当しているくらい。
「でも、あなたも頑としてそれを受け取らなかったわ」
手間賃だなんてとんでもない、それは受け取れない、と言うのに重ねて、ご祝儀も兼ねて受け取ってくれると嬉しいんだけど、と言ってもだ。
「そうだった。シオは特に必要でもない小鍋を買ったんだったな」
「必要、っていうか、まあそうね、緊急には必要としていなかったけれど」
初めて村に来てくれたのだから何か買っていくわ、と言った。
「だって、やっぱり次も商売したい、と思ってもらいたいでしょう?その方が村だって助かるんだもの」
「それもシオには当たり前なんだな」
そうよ、と困惑するシオにユールが笑みを見せる。
どうしても受け取れない、と言う態度に、譲ってみせたのはシオだった。わかったわ、と言って互いの手の中にある銅貨を交換して。呆れたような声音だったから、顔を見るのも躊躇われたが、シオはもう一度、手間をかけたわね、と言った。やわらかい声に顔を上げれば、笑ってくれた。
「そういう真っ正直な商売人はいつでも歓迎するわ。村で何かあれば、私の名前を出すといいわ」
と言って名前を教えてくれては。
「私の父が下の村で裁縫職人をしているの。入り用の物ならいくらでもあると思うわ。あなたのことは話しておくから、ぜひ懇意にしてちょうだい」
それは、この村を訪れるからには必ず売上がある、と言うことの確約でもあった。
あれからユールの商売は少しづつ回り始めたのだ。少しづつ、でも確実に。
仕入れも卸も、シオの父オレガノを中心として、村の商売人からさまざまな手解きを受けた。この村との強力な繋がりが近隣への信頼を得てからは、ならず者やヤクザ者を遠ざけていった。
「この辺りでは、私より娘の名の方が力を持っているんですよ」
と彼は言った。自分もそれにあやかっているのだ、と照れくさそうに言うそれは、付き合いを深めていけば自ずと考えさせられることでもあった。
「シオは強い。冒険者としても、村の権力者としても、一目置かれてる。強い人間が多くの人間を従えているのは良くわかる」
だがユールの目から見えるシオの強さは。
「腕っ節なんかじゃない。普通に、当たり前のことができる、その芯があってこその強さだ」
誰もが知る『真っ当』がぶれない人間が力を振るうから、多くの人間が従うのだ。暴力でも金でも闇でもない、ごく当たり前にある普通。誰もが見過ごして気にもかけない、当たり前の日常にある力。
「それが美しいと思った」
これまで自分が生きてきた小さな世界、人間を支配する様々な力があることを知った。暴力であったり、財力であったり、権力であったり。人の集まるところにある「力」の持つ意味はさまざまであり、人や地域によって価値もそれぞれに違う。
だからこそそれらに頼らない、『普通』を維持できる人の営みは尊い、と気付かされて。
そうして当たり前に生きる力が自分にもあることを知った。
「俺が夫婦に成りたいと思ったのは、そんな人だ。」
結婚とは。
その人が不在でもその人を傍らに感じとれることだと思う。遠く離れた場所にいてもすぐそこに感じられる。それが結婚することの意味だと思う。だからこそ、その相手は、シオが良い。
そう口説く男と結婚する。
夫婦となり家族を作る。そこにある多くの制約が、互いを縛る。生き方が違う、自分とは全くの別人とこれからを共に生きていく。気が遠くなるほどの時間は、想像もつかない生き方を己に課すだろう。
「わかったわ」
自分がなぜ彼を選んだのか。
近隣に名を馳せ、世界の果てまでも冒険者として通用するほどの人間を前にして、普通だから良い、と言う男にはお目にかかったことがない。
この男の目に映る自分は、きっとシオ自身も知らない。知らない自分を知っている人間と歩む道行は、険しくとも頼もしい。そうありたい。シオも彼に対して、そうありたいと願う。それを枷と言うか誇りと言うかは、心次第。そうしてユールなら、どのどちらであっても普通に生きる姿として美しい、と言うだろう。
「私もそれを聞かせてくれるあなただから、あなたがいいんだわ」
普通を当たり前のこととしておざなりにしない。日々の他愛無いことや些細なことへの向き合い方が丁寧な人だからこそ。
惹かれたのだとわかった。
そうか、と、いつになく必死にシオを口説いていたユールが、やっと肩の荷が降りた、とでも言うように大きく息を吐き出して姿勢を崩した。そして。
「夫婦になったら、シオはもう少し子供の部分を大事にしたほうが良いと思う」
と、またもや思いもよらないことを言い出す。
「子供の部分?子供、のことじゃなくて?私のこと?」
「そうだ。さっきの、ドラゴンの」
まだそれを言うか。次それを言ったら殴るわよ、と言いかけたシオを慌てて片手で制す。
「いや、咄嗟にそれが出てきたんだろう?シオは子供の童話だ、って言うけど、それを勢いで口にしてしまうのは、子供の頃からの憧れか思い入れがあるからじゃないのか」
どうでも良いことなら、子供時代の童話の一つなんて思い出しもしない。と言われて考えさせられる。
「あなたはどうしても私を子供っぽくしたいのね?」
無邪気に童話を夢見て、今も結婚相手にはドラゴンの牙を渡したいと胸に秘めているような少女趣味があるように見えるとでも?
別におかしなことじゃないと思うが、と言ったユールが恥ずかしそうに顔を背ける。
「俺は今でも縄を扱う時、今なら跳べるんじゃないかとやってみることがある」
縄を。
子供の頃に一度もできなかった縄跳びを、両親に何度も手解きされたそれを、今なら。
「……跳べたの?」
「いや。一度も成功したことはない」
大の大人が。荷造りの拍子にふと思い立って両手に縄を構えて、大真面目にそれを回しては躓く、そんなユールの姿は容易に想像できて。
シオは笑ってしまった。
子供時代の苦さと、それを振り返る切なさが相まって。
愛おしいという感情に包まれる。
「いいわ、今度一緒に跳んであげるわ」
「え、シオが」
「二人なら案外、簡単に跳べるわ」
くすくすと笑いながら、シオのためにそれを告白してくれたユールに応える。
「ドラゴン退治のことも、今夜考えてみるわ」
と約束する。
それは、結婚の約束。
夫婦になるための、シオとユールだけの特別な、でも奇特な。
愛の、交換だった。