馬車留の柵にもたれ掛かりながら、山の端に今にも沈みそうな夕日を眺めていたシオは、遠い日の幼い恋愛をなんとなく思い出していたが。
「待たせた」
と背後から声をかけられて、その人物を振り返った。
先ほどまでの記憶の中の行商人とは違い、愛想もなければ社交辞令もない、遊びも興も無縁の、無口で堅実な商売をするためだけに生きているような男だ。だから「急がせたのなら悪かったわ」とシオが応えれば、「いつも通りだ」とだけ返して、柵の中に戻っていく。
シオより頭一つ大きい背丈に荷を扱う仕事で鍛えられた肉体は、何も知らない人間が見れば、それなりの武闘家かと見紛うだろうが、この村の人間は知っている。滅多にお目にかかれないほどの、運動神経の悪さを。
現に今も、自分の体の大きさをうまく把握していないかのように、柵に思いっきり腰をぶつけてよろめいていた。おそらくシオだけが知っている、彼の服の下の身体のあちこちにある不用意な青あざやら引っ掻き傷。古いのも新しいのも。それを指先で撫ぜれば、
「俺はどんくさいから」
とだけ、彼は言った。
初めは仲間内や競合相手からのいじめにでも合っているのかと思っていたが、親しくなるにつけ、本当にただ鈍臭いんだな、と嫌でも気づく。
「だから、親と別れて、遠い親戚が経営する牧場に預けられた」
そこで朝から晩まで働くうちに体だけはどんどん育った。親元にいた時とは違って、食べたいだけ食べて良いと言われ、そうしていたらこうなった、というのにも納得だ。
特に意識して体を鍛えたわけでもなく、大食らいとそれを上回る仕事量で作られた筋肉は、それ以外の目的にはうまく働かないらしい。
牧場で働く以上、それで特に問題もなかった。時折、老爺が気を利かせて牛乳の配達に外に連れ出してくれる様な生活。それが少年期から青年期に入って、体が大きく、見た目がいかつくなった頃から、変化が訪れる。
牛乳配達のついでに行商に出るようになった老爺について時折港町にも出入りをしたが、見た目で判断されたか、昔に比べて難癖や言いがかりをつける客が減った。老爺が街の若者と揉めているところに顔を出せば、途端に連中は引いていく。それを理解して、自分が主な行商担当になった。「こんな木偶の棒でも役に立つものだ」なんて自虐にも聞こえるそれを、大真面目に語ったりする。そんな人間だ。
親とはどうしているのか?と尋ねるシオに、数年に一度くらいは会う、と答える様子には、特に何のこだわりもないように見える。
「親は旅芸人の一座で、世界中どこへでも行くから」
なるほど、彼の身体能力の低さでは子供からの芸も身に付かず、お荷物になっていたのだと容易に想像できる。そこからの苦渋の口減らしで、老夫婦の経営する牧場へ預けられた、と。それで一座が近くに来たときは顔を見せる、と言うのだから関係は悪くないのだろう。
いかつい(だけ)の外見を活かして、近隣の村々に牛乳を配達する行商の担当になった。空になった馬車で港町へ向かい、代わりに他の土地の荷を仕入れ、牧場に戻る道すがらにそれを売り売り歩く。その巡回場所の一つにシオの下の村があったというだけ。たったそれだけの縁で、シオはこの男との結婚を考えている。
ユーズ=マーシュマロウ、シオより3つ下の働き盛り。
マーシュとマロウの牧場では行商担当。シオの父、オレガノは特に上客だろう。オレガノの仕事上、彼にあれこれと都合してもらっている代わりに、自分が仕立てた服を他所へ卸すのを任せていたりもする仲だ。
(そんな人をどう紹介するっていうのよ)
なんて頭を悩ましていたからか、先に行った背を追って柵の中へついていったシオは、ユーズが木箱を置いて、座れと示すのにも素直に従っていた。
馬車の傍らに木箱を3つ置いて、そこの一つにランタンと食事の用意。
それに気づいた時には、残る一つの木箱に腰を下ろしてよろめきかけたユーズが体制を立て直していた。
「私、別に食事を頼んだわけではないんだけど」
慌てるシオにも、ユーズは無頓着だ。
わかってる、と言い、麻袋からシャンパンの瓶を一つ取り出してシオに差し出す。
「今日は差し入れをたくさんもらってしまった」
傷んでしまうと申し訳ないから、シオも食べてくれ、と言う。
受け取ったシャンパンの瓶はシオの好みの銘柄。程よく冷えているのを見れば、今し方向こうの通りで買ってきたのかもしれない。
彼にこうも気を遣われているのは珍しいことだったが、特にそれを問題視する余裕はシオにはなかった。仕方がない。何せ、ここ数日は珍しいことばかりに追われて、シオ自身、どこから手をつけていいか途方に暮れていたのだから。これもそのうちの一つ。たった一つ。
「じゃ、ありがたくいただくわ」
うん、と言ったユーズは村の人間からの差し入れだといった夕食にもう手をつけている。
「今日は村に泊まるのね?」
と確認すれば「さっき宿を取った」と言う。今夜は村に滞在して、明日の朝早く帰ると言うので、(それなら良いか)とシオも手前の皿を取った。
馬車の影で、木箱に座って、村人の差し入れてくれた夕飯を囲んで、何の色気もない逢い引きか。傍目には商談でもしているように見えるだろうか、と思って、そっと笑う。
昔から男たちにちやほやされるのが常だった。なんとかしてシオの気を引こうと、男たちの貢物も接待も、過剰になっていった。それがこの村では当たり前のことなのだと受け止めていたけれど、いつしか自分は膿んでいたのかもしれない。人生の華美な装飾に飽きて、それらをもたらす男たちに冷めた。連日連夜の豪勢な食事の後、何気なく蒸しただけの芋を口にして、美味しさに感動する。どうやら自分はそんな人間だったらしい。素朴で質素で堅実な生活で十分。
(ええ、どうせ地味で面白味もない人間でしょうよ)
ここにはいない母と妹二人に向けてのぼやきは癖か、慣れか。
そんなシオに、ユーズは肉の塊を差し出す。それを片手の皿で受ける。こんな場所でなければ、確かに手慣れた夫婦のような感覚。何も気負わない、心地の良い関係。
それを、自分は守りたいのか。誰にも明かさず、守っていたかったのか。今まで、彼に結婚を切り出そうとも思わなかった。ずっとこの関係が続くと思っていたわけでもない。ただ考えようとしなかったそれなのに、今夜、この場所でそれを暴こうというのか。彼の返事を聞くことよりも、自分の本心が固まることの方が未知の領域になるなんて。
よく知った村の味も(今はわからないな)と郷土料理のミートパイを口に運んで黙り込んでいると、ユーズの方が口を開いた。
「今日は差し入れもそうだけど、品の売れ行きも凄かった」
らしくもなく、自分から話題を振ってくる。よほどシオが沈黙しているのに耐えられなかったか。そう思えば、シオはずいぶん長いこと黙り込んでいたらしい。
「あ、ああ、そうね。店じまい、って言ってたものね。完売したの」
いつもなら二、三日滞在することもあったのに。それも出来ず、夕方前には片付けに入っていた様子を思い出す。
「ああ、一つ残らず。それもご祝儀価格で」
「ご祝儀価格?」
「そう言ってた。上の村の女の人たちが。珍しく押しかけてきて。…サフランさんが戻ってきたんだ、って言って」
うっ、と危うく喉にパイを詰まらせるところだった。シャンパンの瓶に口をつけるシオを待って、母さんなんだろう?と言うユーズ。
「そうよ。七年ぶりよ。出て行ってから、7年も居場所を隠して」
「無事だったんだな、良かった」
物静かな口ぶり。シオが時々母親の消息を探して遠出することも知っているユーズ。自分も港町に出入りする関係上、何か情報があれば気づけるから、と母親の詳細を尋ねるユーズには、「まあ便りがないのは元気な証、って昔から言うでしょ」と当たり障りのない言葉を返すこともあったけれど。
彼なりに気遣ってくれていたのには感じ入る。
「オレガノさんも、嬉しそうだった」
「あ、ああ、うん、まあ父さんは、ね」
あの人は感情を隠しもしないだろう。
おかげで下の村の人間もいつもよりざわついてて浮き足立っている。何か変化があればそうやってすぐ広まるのが下の村の特性だけれど。
「けど、それよりも女の人たちが。すごくて」
と今もそれが冷めていないかのように興奮しているのはユーズの方だった。
普段にないお祭り騒ぎに巻き込まれて、物静かな木偶の棒も流石に調子を狂わされているのか。
確かに、シオより上の年代の女性たちが主に、シオの母を取り囲んで姦しいことこの上なかったここ数日だが。
「自分達に嬉しいことがあって、それで普段より良い値で、しかもありったけを買ってくれる、って。なんて」
自分達だけでこの喜びを味わっているんじゃ勿体無い。もっともっと周囲を巻き込んで、お祝い事はより多くの人数で分け合わなくては、喜び事の意味がない。
そんなのが上の村の女性たちの。
「素敵な気質だ」
どれだけ嬉しいかこっちにも伝わってくる。と、普段はまるで感情がないのかと心配するほどに表情も変えないユーズが、そっと微笑んでみせた。
(まあ、珍しいものを見たわ)
とシオが見惚れてしまうのにも気づかないように。
ユーズは少し黙り込んだ。
何かを口にしようとして、気がついたように皿とフォークを持った手を太股に落として、シオを見て言った。
「夫婦になろう、俺たち」