物ごころついた時にはすでに、親というものはいなかった。
親に捨てられたのか、あるいは親元からさらわれたのかすら定かではなかったが、
自分は窃盗団の一味として生きていた。
生きるために盗む、それがどうやら普通ではないと気づいたのはいつだったか。
その窃盗団では、自分も含め、様々な子供が大人たちにこき使われていた。
『ガキなんてものは、ただの道具だ』
それが大人たちの口癖だったから、道具は道具らしく役に立たなくてはならなかったし、
使えなくなった時点でお役御免という終焉があるだけだった。
そんな自分たちと、村や町で見かける子供たちの違いはなんだ。
何故あの子供たちにはあるものが、自分たちにはないのか。
どう考えればいいのか解らなかった。周りにそれを知っている子どももいなかった。
そうして考えることをやめて、ただ生きることだけに費やしてきた身体。
その身体に、心がある事を知ったのは、あの冬の夜。
凍てつくような記憶はいつもこの胸にあり、張り裂けそうなほどの痛みがある。
これは、凍えた魂が寄りそう、遠く近くの昔の話。
* * *
盗みを繰り返す毎日。誰かから奪い、それを窃盗団の大人に奪われる。
成功すれば次の仕事に駆り出され、失敗すればただ捨て置かれるだけの日々。
そうして生きてきただけだ。
もう慣れたもので、その頃の手口としては、大人と数人の子供で家族を装い、集落を訪ねる。
わずかな路銀で一宿一飯を乞い、仮の身の上話をして同情を誘う。
小さな子がいれば容易く、表向きは兄弟の面倒をみる年長者として振る舞う。
そうして村人を安心させ、夜半に財産を根こそぎ奪い、仲間と共に逃走する。
町での盗みから、そういった旅回りでの『仕事』を任されるようになったのは、幾つの頃だっただろう。
親がいない自分には、歳を知るすべがない。
だから聞かれれば適当な年齢を口にしていたが、あの日、彼女は「私と同じね」と言った。
秋の始まりに訪れた村で、その少女と出会った。
収穫期を終え、どの村も豊穣に沸き立っていたが、標的にしたその集落はさらに豊かで、
今までにない待遇を受けた。
集落の長である家に招かれ、働き口を探しているなら領主に口ききもしてあげよう、と言う。
信頼を築ければ、土地をもらい、定住も可能だ。勤勉に励みなさい。
そんな言葉を嘲笑うかのように、自分たちは盗みを働いた。
いつものように、簡単な仕事のはずだった。だがやはり、その村は別格だったのだ。
ならず者にも夜盗にもそれなりに対策がしかれていた。
呆気なく村の自警団によって捕まり、裁きを受けるために領主の地へと送られる罪人となる。
刑を執行されるのだ、という大人たちの怒号をかきわけて、少女は現れた。
長の家の娘だった。
「こんな小さな子なのにひどいわ」
そう大人たちに抗議する背中に、もう10だ、と言えば、彼女は振り向いて言った。
「じゃあ、私と同じね」
そう言って、手を握る。
「あなたの罪は、無知であるということだわ。今からでも遅くない、神の教えを学ぶべきよ」
彼女が何を言っているのかは解らなかった。
だが、村人たちにこの自分の助命を嘆願していたのだと解ったのは、その処遇を聞かされた時。
「お前は町の孤児院へ送られる事になったよ」
と、数日後、村の長に告げられた。
他の仲間たちは一足先に、領地の刑場へと送りだされていた。
彼らと離れることも、これから行く孤児院とやらにも、なんの感情も湧かなかったが。
「大丈夫よ、神の教えのままに、あなたは正しくやりなおせるわ」
孤児院へと連れて行かれる自分に、そう声をかけてきた彼女は、大丈夫と繰り返した。
大丈夫、大丈夫、…その言葉は確かに何かを訴えていた。
だがその時の自分は空っぽで、その言葉に、ある感情が生まれた事さえも理解できなかった。
彼女との思い出は、ただそれだけ。
言葉に何を与えられたとも思えず、また、彼女に言葉を返したこともない。
それなのに、この胸に焼け付くような残像。
孤児院での暮らし、そこで経験していくことすべてが初めての事ばかりであり、
「やりなおせる」と言っていた彼女の顔が繰り返し繰り返し浮かんでくる。
神の教え、正しくあるべきこと、善と悪、人の弱さと過ち、愚かさと、…再生。
孤児院にいる大人たちはそうして自分に善を施し、更生させようとする。
その誰もが、彼女のように見え、彼女の声に聞こえる。
礼拝堂の天使像も、讃美歌も、呪縛のように彼女の姿を纏い、自分を責める。
そうだ、責められている。
生まれてきたことを、生きていくことを、罪をかさねていくことを、責め立てる。
その息苦しさに悶え、賛美を呪詛に、光を闇に代えて、救いを求めた。
正しいことからの解放を望み、数年でその孤児院から逃げた。
それからは、また同じことの繰り返しだ。
見知らぬ町で子供一人が生きていくには厳しく、ただ生きるために盗みを重ねていくうちに、
いつしか同じような子供が集まり、大人のいない窃盗団が出来あがっていた。
それは居場所としては、以前の窃盗団や孤児院よりはるかに居心地は良かったが、
人に関わることが苦痛でならなかったから、一人でこなす仕事の精度を上げた。
仲間内では、大人をしのぐほどの腕だ、と認められてもいた。
そんな生き方が、数年。
町から外れた農村地帯は、かつてないほどの大飢饉に突入していた。
数年前からささやかれていた天変地異、それらのツケがこの年に一気に降りかかった。
秋の実りがほぼない中での、経験したことのないくらいの豪雪。
さらに、凶悪な魔物たちの数が増え、人の集まる村を襲った。
多くの村が壊滅状態で、そこから逃れてきた人々が町にあふれ、治安も悪化していた。
そこから聞こえてくる辺境の状態に、数年まえの残像が甦っていた。
あの村が、瀕死に直面しているのだろうか。
あの長は、村人は、少女は。
何故、それらが思い起こされたのかは解らない。
それでも、衝動的に、意識はそちらへと向かわざるを得ない。
気がつけば、引っ張られるように、身体がその方向へと進みだしていた。
あらがえない、何かが自分を突き動かしていた。
少女の名を、ベニと言った。
驚きだ。5年余りも前の事を、昨日のことのように思いだせる。
豪雪に埋もれた家屋のひずみ、かすかな人の気配、尽きかけている命のもたらす闇。
それらをどうやって探り当てたのかも、わからないまま。
ただ、小さな小屋で身を寄せ合っている子供たちの中に、彼女の姿を見た。
記憶の中と変わらず、天使像であり、神父であり、修道士であり、…ただの少女だった。
「生きていたのね」
と、彼女は言った。
修道院から消息が消え、町での良からぬ噂が立ち尾ひれがついて、自分は亡き者にされていたようだ。
あれから幾度もあなたの事を考えていたのよ、という声は潤いもなく焼け爛れたように痛ましい。
「盗みのおかげで、生きている」
盗みの腕は冴え、人を欺き、のし上がり、明日の生死に脅かされることなく生きている。
それに引き換え、この小屋の中にいる子供たちはどうだ。
「暴動が起きたのよ」
と、ベニは言った。
中央の領主が財産を抱え込み、周辺の集落を締めだした。
飢えた村人たちは、堅牢な領主の屋敷には太刀打ちできず、憤懣は身近な長たちに向いた。
ベニの長といえども、ここ数年の飢饉で村人全員が冬を越せるほどの備蓄はない。
当然、村人たちへの施しも明日を見据え切り詰めながらに日々をしのいでいたが、
とある長が村を捨て一家で備蓄を持ち逃げしたという噂がり、村人の緊張が崩壊した。
家は暴動で焼け、備蓄は持ち逃げされ、魔物たちが徘徊し、村の大人たちは散り散りになった。
「私の両親も、使用人も、食べ物を探しに行くといってしばらく帰ってこないわ」
どこまで探しに行ったのか、帰るあてがないのか、あるいは捨てられたのか、知るすべはない。
残された子供たちがひっそりと集まり、火を絶やさぬようにいるだけで精いっぱい。
家具らしい物もほぼ燃やしきった。
「もう何もないわ」
そう言う彼女は、周りに集まっている小さな子供たちの頭をなでる。
泣くほどの力も残されていない、静かな静かな終焉がそこにはあった。
「それが、神の教えか」
何に対する腹立ちなのかは解らないまま、声を押し殺した。
ベニはただ微笑む。困ったようにも、泣きそうにも見えた。
「これが、正しいということか」
神の言葉に耳を貸さず、正しきことから目をそむけ、悪事に手を染め生きてきた。
やり直す事もなく、悔い改めることもせず、こうして裁かれることもなく、ある自分。
正しいとは、なんだ。
荷を下ろし、乾燥させた穀物を取り出す。火にかけられている鍋の中に放りこんで、炊いて戻す。
そうして簡素な重湯を作り、目の前の子どもたちに突き出した。
「食え」
空腹に立ちあがることもできず、その鍋を受け取る力もないほど弱っているのに、
誰もそれに手を伸ばさない。
子供たちは、ベニに救いを求めるような視線をおくるだけ。
ベニはといえば、何の感情も読めない表情で、ただ口を引き結んでいる。
「盗賊から施しは受けないとでもいうのか」
この期におよんで。
正しさとは、清らかさとは、死と引き換えにするほどのものか。
では、そうではない自分ばかりが生き残り、蔓延る世界とは一体なんだ。
「そうだ、これは盗んできたものだ」
己の為だけに蓄え、囲い込み、分け与え助け合おうともしない強欲な層から盗む。
いくらでも盗める。いくらでも、活かしてやることができる。
「そうやって俺は生きている!死ぬしかないお前らと違って、生きる手段がある!」
怯えたように身を寄せ合う子供たち。
罪を拒み、この手からすり抜けていくというのなら、いっそ自分の手で終わらせてやろうか。
今の自分なら、その首に手をかけ、命でさえも奪えるだろう。
そうして人として大いなる罪を背負い、天を嗤いながら生きていって見せる。
どちらが正しかったか、神に問うために。
そんな独白を、この場の誰にも届かないであろう虚しさを、吐き出し続ける。
それは、悲鳴。
悲鳴のようだった、と、後にベニが言った。
やわらかい腕で抱きしめ、だから貴方と生きていこうと思った、とささやく声は凍えたまま。
今も、自分たちの心は、この日の夜のように凍えている。
「私たちの罪は、私たちが終わらせましょう」
いただきます、と、ベニが最初に重湯を口にする。
それを大切に大切に口にふくんで、飲み下し、一筋涙をこぼす。
それを、信じられない思いで見ているしかない。
何も言えずにただ見ているだけ、ベニは幼い子たちにも少しずつ重湯を与えていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、全員がそれを食べきる前に冷えてしまうので、何度も温めてやった。
その夜、言葉は何一つ発されることがなかった。
そうして命をつないで、十数日、手持ちの穀物が尽き、吹雪の止んだ日に一人外へ出た。
村には人が残っていない。領主とやらがいる地まで足を延ばし盗んできても良かったが、
その間に、ベニたちが命を断ってしまうような気がしてならなかった。
罪を背負う、と言って盗人の食料に手をつけたベニ。彼女の真意が解らず、ただ恐ろしかった。
だから山へ入り、手当たり次第に土を掘り、野生動物を探した。
凍った川を割り、一日中、生き物を探した。
もう、どんなものを口にすることにも、誰も異を唱えなかった。
そうして、ただ生きる。
凍える身をよせあって、わずかな食料をわけあい、ただひたすら眠る。
この冬さえ持ちこたえれば、この地を離れられる。それが希望。
眠りの中で、ベニの歌声が聞こえる。それは子守唄なのか、讃美歌か。
音楽を知らない自分には解らない。
それでも、その歌声を聴いていられることが、唯一の安らぎ。
…生まれて初めて知った、安らぎだった。
「この村を捨てよう」
春が近くなってきた日、準備を始めなければならない、と切り出した。
この地を離れ、少しでも生きる可能性がある地を目指し、旅をするための準備。
それを提案すれば、ベニたちも了承した。
そのためには手段を選ばない事も、暗黙の了解。自分たちは同じ罪を抱いている。
長い長い旅が始まる。
道沿いに人家を探し、生きるための交渉をする。
自分が盗んで蓄えた金はまだある。
これが尽きる前に、ベニたちが暮らせる村を見つけなくてはいけない。
冬が終わったとはいえ、この辺りでは飢饉の影響が強く、子供たちを受け入れられる余裕はない。
かと言って、町で暮らしていくこともできない。
自分が盗みで蓄え、養ってやることは簡単だが、おそらくもう、ベニはそれを受け入れないだろう。
いや、ベニが、というより、何よりも自分が、もう盗みはできない、と思い知らされる事件が起こった。
それを、罪というのだ。
どの村も蓄えはない。
いくら自分たちに路銀があっても、引き換えに食料の備蓄を出せる村はそうない。
何度も邪険にされ、暴力をもって追い払われ、思いあまって盗みに入ろうとした夜。
ベニが全力でしがみつき、泣きじゃくってそれを止めた。
「あなたが捕まって殺されるのが恐いのよ!」
必死のその叫びに、初めて、罪というものの存在がわかった気がした。
神の教えでなく、聖書や神父の言葉でもない、たった一人の人間の本音だったからこそ、
心に衝撃が走った。
捕まるようなへまはしない。けれど、罪とは、この少女を悲しませるものだ。
自分がそれを背負い続ける限り、この少女は恐怖と悲哀に苦しめられ、幸せにはならない。
それを、身をもって理解した。
やっと、理解できたと思った。
そこからの旅は苦しく、常に恐怖に身を寄せ合い、助け合いながら僅かづつ前へ進む。
そうした途中、立ち寄った村で、小さな子を引き取らせてくれないか、と言われた。
南下をつづけていくと、飢饉からの立ち直りを見せ、少しずつ余剰が出てきている村がある。
その集落では、失った我が子の代わりに、小さな子を育てたい、という夫婦があった。
別の集落では、子供の面倒をみる年長者が欲しいと、乞われた。
また別の場所では、小さな子を哀れに思い、引き受けている教会もあった。
確かに幼子を連れての旅は疲労を極め、たびたび頓挫することも多い。
それを解っていて尚も渋るベニに、自分が数年ごとに様子を見に来るから、と言い聞かせ、
了承させる。
子供らの居場所をすべて記憶し、彼らが満足していない時には引き取りに来るという約束で、
別れた。
そうやって子供を減らしながら旅を続け、季節は変わり、また、冬が近づいてきている。
「そこは、行き場のない人間が集い、隠れ住む村だ」
そんな噂を聞いてたどり着いたのは、世間と断絶されたかのような頂きが連なる場所。
村としての体を成してはいたが、あまりにも粗末で質素な集落だった。
そこにたどり着いた時には、自分とベニ、ベニの妹と弟、元の村の少年が一人、という有様。
そんな子供たちを、村長だと名乗る老人は良いも悪いもなく、受け入れた。
「ここで自力で暮らしていけると思うなら好きにすればいい」
来るものは拒まず去る者は追わず、だ。と、突き放したような口調。
老人に、行き場のない人間が集まっていると聞いたが…、と、それとなく探りを入れれば、
不愉快そうに笑い飛ばされた。
お前も探られたくない腹があるからだろう、と見透かされたような事を言われれば、
それ以上は何を聞くこともできない。
仕方なく、いいのか?とベニに尋ねれば、神に近い場所だわ、とベニが笑った。
適当なあばら屋をあてがわれ、細々とした生活が始まる。
ベニや、その妹は村の中で手伝いを探し、わずかに食料を分けてもらう。
ベニの弟と、村の少年は、自分と一緒に山を降り、仕事を探して歩いた。
毎日食べていくことはできない、けれど、あの冬を超えて来た以上、簡単に挫けることもなかった。
毎日を必死で生き抜き、夜になればただ眠った。
それだけの事が続いていくうちに、ベニの妹は村の中心にいる人物に見染められた。
ベニの弟は村に時折くる商隊に見込まれ、その仕事を任される下の村に降りた。
そして村の少年は、隣にすむ年上の女性と所帯をもつことになり、ベニと自分が残された。
「お嫁さんにしてください」
と、ベニに言われて、心臓が止まりそうなほど驚いた事を、今でも覚えている。
勿論、あの村を捨て長い旅をしてきたのは、ベニを幸せにすることが最大の理由だった。
本当はこんな粗末な辺境ではなく、もっと裕福な村で、何不自由ない暮らしを与えてくれる男の元へ
ベニ自身が嫁いでくれることが望みだったのに。
自分でいいのか。何故、自分のような男を選ぶのか。
この村にしてもそうだが、ベニの選択は全く理解できない。
「私は、あなたに多くのものを背負わせてしまった」
始まりの咎、冬の夜を超えた責、村から村への旅路、子供たちの未来、この場所での懺悔。
「罪を背負って生きるということ、そのせいで心が凍えてしまっているから」
あなたにぬくもりをあげたい、とベニは言った。
「この場所で、わたしたちの罪を終わらせましょう」
それは、神の裁きか。
神は、命あるものに生きよといいながら、試練を課すのはなぜなのか。
生まれたての命、その無垢なものに触れることが恐ろしかった。
そんな自分に、ベニが身体を預けてくる。
「名前をつけてあげてね」
そんな資格はない。自分が名前をつけようものなら、きっとこの命は断たれてしまう。
直前まで、母子ともに危ない、と言われていたのだ。その恐ろしさが解るだろうか。
やはり自分はベニと夫婦になるべきではなかった。
そう言えば、ベニに怒られた。
「今からそんな気弱な事言っててどうなるの」
これからもっと恐ろしい事が起こるんだから、と、脅され、その赤子を見た。
なんだか赤くてうにょうにょしてて、自分たちと同じ生き物とは思えないそれを見て、
ヒイロと名付けた。
命の、色だ。
それは何度も何度も消えそうになりながら、必死に呼べば命を吹き返す小さい魂。
幾度となく危機に直面しては自分たちを心胆寒からしめる。
そうして大切に大切に守り育て、恐怖も、喜びも、愛おしさも、ありとあらゆる感情を与えてくれるもの。
空っぽだった身体が、こんなにも多くの激情で満たされていく。
あなたにぬくもりをあげたい、と言ったベニの本意はここにあったのだと、今ならわかる。
ヒイロに続く子供たちが、自分を父と慕い、無条件に頼り、求めてくれるという幸福。
それは人から奪うものではなく、人に奪われるものではない。
唯一無二の、許された光だ。
ベニは、小さな子供たちに言い聞かせる。
友達の玩具をとってはいけない。
誰かの物を壊してはいけない。
人を傷つけたり、嘘をついたりしてはいけない。
なぜなのか?それを悲しいと思う人がいるからだ。
日常茶飯事に起こる他愛ない諍い事をひとつひとつ言い聞かせる言葉は、子供たちにではなく、
自分自身に言い聞かせているかのように思える。
そして、それはかつて孤児院で神の教えとして神父が、修道士が語っていた事だ。
あれらの言葉は、こういうことだったのかと、子供たちと一緒にそれを聞く。
それは、自分も子供時代をやり直しているような感覚。
やり直せる、といったベニの言葉に今なら、頷ける。
神の教えは、人が幸せに気づくためにある。
「正しいことをして報われないからといって、正しくないことをしてしまったらそれは不幸なんだわ」
あの日、あなたの言葉が悲鳴のようだと思ったのはとても辛そうだったから。
何が正しくて何が正しくないのか、もう解らなくなったけれど。
「誰かを不幸にするのは、やっぱり正しくないと思うのよ」
だから自分で考えることにしたの、とベニは言った。
神の教えに従って、その言葉を借り物のように言って聞かせるのではなく。
誰も悲しませない。その単純な思い一つを、子供たちを導く判断基準として守りぬく。
「それを忘れない為に、この場所を選んだ」
天に向かって、高くそびえる峰。
「子供たちには、この過ちを受け継がせないために」
私たちの罪を、私たちの手で終わらせる。
そういうことか、とベニの覚悟を受け止める。信頼の証に、手と手をつなぎ合う。
もう十分だ。
ベニにも、子供たちにも、これ以上はないくらいのぬくもりを与えてもらっている。
だから、この凍えた心さえも愛おしい。
そう言えば、「わたしもよ」と、ベニも笑った。
いつも、思いだす。心が完全に凍えた、あの日の事を。
だからこそ、生きていける。
どんなささやかなぬくもりも、他愛ない幸せも、この凍えた心に寄りそう。
そうしてくれたのは子供たち。そして、あなた。
こんなふうに、一緒に生きていきたいと思える人に出会えた。
もうこれ以上、何も望むことはない。