![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/6c/f8d260e394c57f8c8de39f6d61ecb7c0.jpg)
“高取城”について調べていると、次の文に出会った。
【 高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。
それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺 っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。
司馬遼太郎 街道をゆく 大和・壺坂道 城跡の森 より抜粋 】
んん~ アンコール・ワットかぁ~ 本物を見てみたいなぁ~
せやけど、高取城もええ感じなんやろなぁ~
車道終点に車を停め、細い坂道を登りだした。
すぐに“七ツ井戸”という立て札。
標高約600mの山の山頂直下で、水を確保するために井戸を掘る・・・
昔、イタリアを旅したとき、町が丘陵(山?)の上に建てられているのに驚いた。
その町を見て、飲み水をどうすんねんやろか?という疑問が湧いたのを思い出した。
急な坂を歩きながら山頂を見上げるとお城の石垣の一部が見えてきた。
ワクワクドキドキ!
開けた場所に着いて、石垣を登るための石段を上った。
めっちゃ気持ちええ!
その場で360度の展望を・・・
分かったことは、今立っている場所が天守閣のあった山頂ではなかったということ。
どおりで石組みの規模が小さいと思った。
27の櫓と33の門で守りを固めたこのお城は、本当はまだまだこれからなんやぁ~
※高取城について
資料によると「高取城は1332年(元弘2年)越智邦澄が護良親王の挙兵に応じて高取山(標高584m)に築城した「掻揚げ城」が初めで、織田信長の「一国一城」令で一度破壊された後、1584年(天正12年)郡山城主の筒井順慶が詰城として整備し、後に豊臣秀長が大和へ入国した時、脇坂安治が入城して、次いで秀長の命によって、1589年(天正17年)本田利朝が石塁を築き、本丸に大小の各天守閣を起こし、多くの城門を連ねて櫓楼も配され、山城に平城の長所を取り入れた堅固な城を完成して、本田氏が断絶の後、1640年(寛永17年)植村家政2万5千石が入部しました。
また、芙蓉城、鷹取城とも呼ばれ、日本三大山城中随一の「高取城」は、麓からも眺められ、「たつみ高取雪かと見れば 雪でござらぬ土佐の城」と歌われ、明治4年の廃藩まで232年間14代続き、明治中頃廃城した。
幕末の1863年(文久3年)8月に天誅組が五條代官所を襲って代官鈴木陣内以下5名を血祭りに挙げ、千余名でもって、8月26日婦女と子供を加えた約五百名が守る高取城を攻めるべく押し寄せたが、大阪夏の陣で活躍した大砲を麓(鳥ケ峰)に据えて退却しました。」とのことである。
「写真;㊤高取城本丸跡」
【 高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。
それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺 っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。
司馬遼太郎 街道をゆく 大和・壺坂道 城跡の森 より抜粋 】
んん~ アンコール・ワットかぁ~ 本物を見てみたいなぁ~
せやけど、高取城もええ感じなんやろなぁ~
車道終点に車を停め、細い坂道を登りだした。
すぐに“七ツ井戸”という立て札。
標高約600mの山の山頂直下で、水を確保するために井戸を掘る・・・
昔、イタリアを旅したとき、町が丘陵(山?)の上に建てられているのに驚いた。
その町を見て、飲み水をどうすんねんやろか?という疑問が湧いたのを思い出した。
急な坂を歩きながら山頂を見上げるとお城の石垣の一部が見えてきた。
ワクワクドキドキ!
開けた場所に着いて、石垣を登るための石段を上った。
めっちゃ気持ちええ!
その場で360度の展望を・・・
分かったことは、今立っている場所が天守閣のあった山頂ではなかったということ。
どおりで石組みの規模が小さいと思った。
27の櫓と33の門で守りを固めたこのお城は、本当はまだまだこれからなんやぁ~
※高取城について
資料によると「高取城は1332年(元弘2年)越智邦澄が護良親王の挙兵に応じて高取山(標高584m)に築城した「掻揚げ城」が初めで、織田信長の「一国一城」令で一度破壊された後、1584年(天正12年)郡山城主の筒井順慶が詰城として整備し、後に豊臣秀長が大和へ入国した時、脇坂安治が入城して、次いで秀長の命によって、1589年(天正17年)本田利朝が石塁を築き、本丸に大小の各天守閣を起こし、多くの城門を連ねて櫓楼も配され、山城に平城の長所を取り入れた堅固な城を完成して、本田氏が断絶の後、1640年(寛永17年)植村家政2万5千石が入部しました。
また、芙蓉城、鷹取城とも呼ばれ、日本三大山城中随一の「高取城」は、麓からも眺められ、「たつみ高取雪かと見れば 雪でござらぬ土佐の城」と歌われ、明治4年の廃藩まで232年間14代続き、明治中頃廃城した。
幕末の1863年(文久3年)8月に天誅組が五條代官所を襲って代官鈴木陣内以下5名を血祭りに挙げ、千余名でもって、8月26日婦女と子供を加えた約五百名が守る高取城を攻めるべく押し寄せたが、大阪夏の陣で活躍した大砲を麓(鳥ケ峰)に据えて退却しました。」とのことである。
「写真;㊤高取城本丸跡」
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