“通天閣スカイウォーク”は、大阪(京セラ)ドームが見える西側から始まった。
そして反時計回りに命綱を掛け替えながらヨチヨチ歩き。
速く歩くのはモッタイナイ!
先ほど下車した新今宮駅や西成の地域が見える南側で係のオニイサンが記念撮影。
写真はスカイウォーク認定書付きで1枚500円也。
それから天王寺動物園のある東側へ移動。
完成したら日本一の高さになるビルは、現在建設途中。
それより、天王寺公園の緑の美しさ!
大阪市立美術館のすぐ左(北側)に見える小山が、“大阪冬の陣・夏の陣”で激戦の舞台になった“茶臼山”。
そしたら・・・
茶臼山から左(北)にある緑は真田幸村が討ち取られた“安居天神”か・・・
そしたら・・・
大阪城はどこ???
視線をさらに左に移し、ビルの間を探してやっと発見!
チッチャ!
距離も近いなぁ~
もう、頭の中は司馬遼太郎の世界や~~~
@茶臼山
四天王寺の南西に立つ茶臼山は、5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳であるという説がなされている。しかし1986年の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つからなかった。一方、規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられ、結論が出されていないのが現状だ。
大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことはよく知られる。
@茶臼山古戦場跡
慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤備が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤備えと松平家の家紋のつま黒が交互に入り乱れる大阪夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大阪夏の陣/天王寺口の戦い)数では劣る真田隊であったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。(※立札のとおり)
@眞田幸村陣 歿の旧跡
元和元年、大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於いて大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦ひ、五月六日、幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦ひ、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日、これを記念して植樹される。
(例年五月七日に幸村祭が盛大に行はれる。)
…茶臼山から駆け降りた幸村以下約一万の決死隊怒涛の騎馬突撃は凄まじく、松平忠直隊…駿府衆…を突破、さらには本隊旗本勢を瞬く間に壊滅状態に追い込み、家康本人をも窮地に陥れた。家康の窮地は、後にも先にも、甲斐の虎・武田信玄に滅多撃ちにされた「三方ヶ原の戦い」とこの時のたった二度だけだったという…。
そして反時計回りに命綱を掛け替えながらヨチヨチ歩き。
速く歩くのはモッタイナイ!
先ほど下車した新今宮駅や西成の地域が見える南側で係のオニイサンが記念撮影。
写真はスカイウォーク認定書付きで1枚500円也。
それから天王寺動物園のある東側へ移動。
完成したら日本一の高さになるビルは、現在建設途中。
それより、天王寺公園の緑の美しさ!
大阪市立美術館のすぐ左(北側)に見える小山が、“大阪冬の陣・夏の陣”で激戦の舞台になった“茶臼山”。
そしたら・・・
茶臼山から左(北)にある緑は真田幸村が討ち取られた“安居天神”か・・・
そしたら・・・
大阪城はどこ???
視線をさらに左に移し、ビルの間を探してやっと発見!
チッチャ!
距離も近いなぁ~
もう、頭の中は司馬遼太郎の世界や~~~
@茶臼山
四天王寺の南西に立つ茶臼山は、5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳であるという説がなされている。しかし1986年の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つからなかった。一方、規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられ、結論が出されていないのが現状だ。
大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことはよく知られる。
@茶臼山古戦場跡
慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤備が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤備えと松平家の家紋のつま黒が交互に入り乱れる大阪夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大阪夏の陣/天王寺口の戦い)数では劣る真田隊であったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。(※立札のとおり)
@眞田幸村陣 歿の旧跡
元和元年、大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於いて大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦ひ、五月六日、幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦ひ、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日、これを記念して植樹される。
(例年五月七日に幸村祭が盛大に行はれる。)
…茶臼山から駆け降りた幸村以下約一万の決死隊怒涛の騎馬突撃は凄まじく、松平忠直隊…駿府衆…を突破、さらには本隊旗本勢を瞬く間に壊滅状態に追い込み、家康本人をも窮地に陥れた。家康の窮地は、後にも先にも、甲斐の虎・武田信玄に滅多撃ちにされた「三方ヶ原の戦い」とこの時のたった二度だけだったという…。
今読んでいるのは、司馬遼太郎「城塞」。
まさに
大阪冬の陣が始まる前のことです。
読み終えたら、私もこの辺りをウロウロしたいと思っています。