大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

元興寺極楽坊へ

2008年12月05日 | 奈良市
今年は“南都七大寺”に縁のある年だ。
今回は、“元興寺”を探して迷路のような奈良町を彷徨った。
1451年(宝徳3年)に元興寺が伽藍の殆どを消失し、その境内地に町並みが形成されたのが奈良町とのこと。
もともと“元興寺”は、蘇我馬子が明日香に法興寺(現 飛鳥寺)を建立し、平城遷都にともない、これを平城京に移建して寺号を“元興寺”に改めたお寺。
かつての“元興寺”は、敷地が2000町歩、“南都七大寺” では東大寺の4000町歩に次いで広かったという。
2000町歩って、およそ2000ヘクタールやからホンマニ広い!
1ヘクタールが100m×100mの広さやから、その2000倍・・・
巨大な寺院が荒廃し、そこに人が住み着いて町ができた。
大きな歴史の流れと荒廃を想像するだけで・・・
本堂の外観は、1244年(寛元2年)に改修された当時のままの状態で、内陣は更に古く奈良時代僧房の姿を残し、また、寄棟の1面で所々白く色変わりしている西流れの屋根に葺かれた行基瓦は、平城京遷都の後に、718年(養老2年)当寺の前身飛鳥寺から運ばれた我が国最古の瓦なのだそうだ。
私は古代瓦に興味があるのだが、遠くてはっきり見えそうにない。
「今昔物語」によると、740年頃(天平時代)南の大坊の智光が一心不乱に経を読み極楽往生を願っているのに、北の小坊の礼光が寝てばかりいて、ころりと死んで極楽へ往生した。これを知った智光がそんな馬鹿なことは無いと嘆いていると、阿弥陀仏が夢で浄土の荘厳を見せて諭し、眠りから覚めた智光が夢で見た浄土を描かせたのが、今に伝わる国重文「著色智光曼荼羅図」。
その「曼荼羅」を祀ってから本堂を極楽坊、極楽堂、曼陀羅堂と称し、古来浄土発祥の聖堂として名高いそうだ。
東門横の駐車場脇にあった石仏たちに目が行った。
またまたお不動さんの登場や!
最近、石仏が気になってしょうがないんやなぁ~
「写真;元興寺極楽坊東門」


コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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元興寺さん (ひー)
2012-08-22 11:51:30
ここは珍しくお墓が境内にあるお寺なんですよね。

瓦や閼伽井のあたりを見るのが大好きです。
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Unknown (瓜亀仙人)
2012-08-23 18:29:56
ひーさんへ
たくさんの石仏が並んでいたのを覚えています。
奈良町散策、またゆっくりしたいものです!
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