私がどうして大和郡山の“額安寺(かくあんじ)”へ行きたいと思ったか。
それはこの夏前に知ったことなのだが、747年(天平19年)の『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』によれば、南都七大寺の1つである“大安寺”の前身は、621年(推古29年)聖徳太子が額田部の地に建立した“熊凝精舎(くま ごりしょうじゃ)”であって、これが後に“百済大寺”、“高市大寺(大官大寺)”へと移転と改称を繰り返した後、平城京の“大安寺”となったのだという。
この夏、私は“百済寺”と“大安寺”を訪ねた。
だから今回、“額安寺”へ。
でも、やっと到着したと思ったら、どこかのお寺と同じ17時ちょっと前。
ん~拝観料を払うのモッタイナイしなぁ~って受付の前で悩んでいたら、私を見た受付の 女性が、受付の横で立っていた女性2人に
「お待たせしました~ タクシー来ましたよ!」と声をかけたのだ。
えっ? 私、なんでタクシードライバーに間違えられたん?
私のどこがタクシードライバーやねん!
受付前でタクシーを待っていた女性2名はがっかりするし、
陽は傾いて来るし・・・
いっぺんに拝観する気なくなってしもうたわ~
まさに、“腹立ちのぼる秋の夕暮れ”やったなぁ~
※額安寺について
境内は、621年(推古29年)聖徳太子創建の学問道場「熊凝精舎」の旧地で、推古天皇の額に悪瘍が生じた時、薬師如来に祈ったら平癒されて、「額安寺」の寺号を賜り、奈良時代に唐から帰国した額田部氏出身の住職第一世道慈律師が、重文「乾漆虚空蔵菩薩半跏像」を安置し、七堂伽藍を備えた大寺でしたが、1499年(明応8年)兵火で焼失し、五重塔は豊臣秀吉が「四天王寺」へ移しました。
「写真;額安寺」
それはこの夏前に知ったことなのだが、747年(天平19年)の『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』によれば、南都七大寺の1つである“大安寺”の前身は、621年(推古29年)聖徳太子が額田部の地に建立した“熊凝精舎(くま ごりしょうじゃ)”であって、これが後に“百済大寺”、“高市大寺(大官大寺)”へと移転と改称を繰り返した後、平城京の“大安寺”となったのだという。
この夏、私は“百済寺”と“大安寺”を訪ねた。
だから今回、“額安寺”へ。
でも、やっと到着したと思ったら、どこかのお寺と同じ17時ちょっと前。
ん~拝観料を払うのモッタイナイしなぁ~って受付の前で悩んでいたら、私を見た受付の 女性が、受付の横で立っていた女性2人に
「お待たせしました~ タクシー来ましたよ!」と声をかけたのだ。
えっ? 私、なんでタクシードライバーに間違えられたん?
私のどこがタクシードライバーやねん!
受付前でタクシーを待っていた女性2名はがっかりするし、
陽は傾いて来るし・・・
いっぺんに拝観する気なくなってしもうたわ~
まさに、“腹立ちのぼる秋の夕暮れ”やったなぁ~
※額安寺について
境内は、621年(推古29年)聖徳太子創建の学問道場「熊凝精舎」の旧地で、推古天皇の額に悪瘍が生じた時、薬師如来に祈ったら平癒されて、「額安寺」の寺号を賜り、奈良時代に唐から帰国した額田部氏出身の住職第一世道慈律師が、重文「乾漆虚空蔵菩薩半跏像」を安置し、七堂伽藍を備えた大寺でしたが、1499年(明応8年)兵火で焼失し、五重塔は豊臣秀吉が「四天王寺」へ移しました。
「写真;額安寺」
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