先日から大和五條へ。
奈良盆地の南西にある風の森峠を越えて通っている。
その峠を下り始めた所、北宇智あたりで“藤岡家住宅”という看板が目についた。
北宇智は、昔、国鉄の列車がスイッチバックをしていた所。
またまた行ってみたいという衝動が・・・
行ってみたら、それはそれは凄いお宅でした!
@藤岡家住宅
「大和の大桜」と讃えられた俳人・藤岡玉骨の生家。
藤岡家住宅は長い間空き家となっていた。
現当主の宇太郎氏が修復を思い立ち、平成18年に着工、平成20年修復を完了して「NPO法人うちのの館」が管理公開を行っている。
藤岡家は両替商、質商、薬種商、紺屋なども営んだ江戸時代から続いた庄屋で、江戸から明治期にかけての十棟が残っている。
住宅内部は、玉骨や与謝野夫妻ゆかりの資料などの展示室・多目的スペース・茶席・喫茶室などを備えている。
店の間のある母屋は天保3年(1832)の建造、内蔵は寛政9年(1797)の建造である。
近内は、南大和から金剛山を越えて大坂に至る最短ルートの入り口にあたり、交通の要衝であった。
藤岡家当主は代々「大坂屋長兵衛」を名乗って来た。
長兵衛梅は樹齢250年と言われている。
藤岡家住宅の敷地面積は約1300㎡
十棟の建物は道路を挟んだ米蔵を除き、廊下で連結されている。
@藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年 - 1966年)
俳人。奈良県の人。玉骨は号。
東大法科卒。内務官僚、各県知事歴任、大日本紡績常務、戦後は南都銀行取締役。俳句は中学時代から始め青畝、虚子に師事、「ホトトギス」「カツラギ」同人。著書に『玉骨句集』他あり。昭和41年(1966)歿、78才。
奈良盆地の南西にある風の森峠を越えて通っている。
その峠を下り始めた所、北宇智あたりで“藤岡家住宅”という看板が目についた。
北宇智は、昔、国鉄の列車がスイッチバックをしていた所。
またまた行ってみたいという衝動が・・・
行ってみたら、それはそれは凄いお宅でした!
@藤岡家住宅
「大和の大桜」と讃えられた俳人・藤岡玉骨の生家。
藤岡家住宅は長い間空き家となっていた。
現当主の宇太郎氏が修復を思い立ち、平成18年に着工、平成20年修復を完了して「NPO法人うちのの館」が管理公開を行っている。
藤岡家は両替商、質商、薬種商、紺屋なども営んだ江戸時代から続いた庄屋で、江戸から明治期にかけての十棟が残っている。
住宅内部は、玉骨や与謝野夫妻ゆかりの資料などの展示室・多目的スペース・茶席・喫茶室などを備えている。
店の間のある母屋は天保3年(1832)の建造、内蔵は寛政9年(1797)の建造である。
近内は、南大和から金剛山を越えて大坂に至る最短ルートの入り口にあたり、交通の要衝であった。
藤岡家当主は代々「大坂屋長兵衛」を名乗って来た。
長兵衛梅は樹齢250年と言われている。
藤岡家住宅の敷地面積は約1300㎡
十棟の建物は道路を挟んだ米蔵を除き、廊下で連結されている。
@藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年 - 1966年)
俳人。奈良県の人。玉骨は号。
東大法科卒。内務官僚、各県知事歴任、大日本紡績常務、戦後は南都銀行取締役。俳句は中学時代から始め青畝、虚子に師事、「ホトトギス」「カツラギ」同人。著書に『玉骨句集』他あり。昭和41年(1966)歿、78才。
こんな立派なお宅が空き家だったなんて・・・
中で食事(昼食)をいただけるようです。
次回は午前中から行って、ゆっくりしたいと思います。