先日から大和五條通い。
目的の建物前には、なにやら碑?が建てられていた。
近づいて観察することに。
“森田節斎顕彰碑”???
森田節斎って???
司馬遼太郎の小説に登場するやろか?
@森田節斎
江戸後期の儒学者,志士。名は益,通称謙蔵,節斎,または節庵,愚庵と号す。大和(奈良県)五条の人。父文庵は医者。文政8(1825)年京都に出て猪飼敬所に就き,さらに11年頼山陽に学ぶ。12年より昌平黌に入り,安井息軒,塩谷宕陰らと相識る。弘化1(1844)年江木鰐水の『山陽先生行状』を強く論難する。京都に塾を開き尊攘論を唱え,吉田松陰,乾十郎ら尊攘志士を輩出し,また頼三樹三郎,梅田雲浜,宮部鼎造らと親しく交わる。文久1(1861)年倉敷に移る。門人原田亀太郎が天誅組に参加し,自らは中川宮朝彦親王へ上申するなどの運動で幕府に目をつけられたため,紀伊国に逃れ髪をおろし愚庵と号し,那賀郡花見村に没す。
目的の建物前には、なにやら碑?が建てられていた。
近づいて観察することに。
“森田節斎顕彰碑”???
森田節斎って???
司馬遼太郎の小説に登場するやろか?
@森田節斎
江戸後期の儒学者,志士。名は益,通称謙蔵,節斎,または節庵,愚庵と号す。大和(奈良県)五条の人。父文庵は医者。文政8(1825)年京都に出て猪飼敬所に就き,さらに11年頼山陽に学ぶ。12年より昌平黌に入り,安井息軒,塩谷宕陰らと相識る。弘化1(1844)年江木鰐水の『山陽先生行状』を強く論難する。京都に塾を開き尊攘論を唱え,吉田松陰,乾十郎ら尊攘志士を輩出し,また頼三樹三郎,梅田雲浜,宮部鼎造らと親しく交わる。文久1(1861)年倉敷に移る。門人原田亀太郎が天誅組に参加し,自らは中川宮朝彦親王へ上申するなどの運動で幕府に目をつけられたため,紀伊国に逃れ髪をおろし愚庵と号し,那賀郡花見村に没す。
謙蔵,節斎,または節庵,愚庵・・・たくさんの名前が出てくるので・・・気をつけなくっちゃ。
これは偶然?いや必然?!
人生いろんな出会いがあるものですね。
司馬遼太郎「城塞(中)」を間もなく読み終えます。
問題は、まだ下巻を手に入れていないことです。