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私がぼんやり遅く朝食を食べていたら,親父が「菊苗が欲しいから(買い物に)連れていけ。」と言う。
「どんな菊(の苗)?」と聞くと,「大輪の3本仕立ての・・・」と返事が返ってきた。
「今までそんなん買うたことなかったやん?」と聞き返すと,
「今年も挿し木をしたんやけど,あんまりエエことないねん。」と元気のない返事。
私は着替えて親父を助手席に乗せ買い物へ。
個人経営のお店を2軒,それからコーナンとコメリ,最後は農業屋へ。
なぜ最後に農業屋に行ったのか?
それは,農業屋のお隣の小さな山が,昨日ブログに書いた「桜井茶臼山古墳」やから。
車を農業屋の駐車場入れ,親父をお店に残して,私はデジカメを持って「桜井茶臼山古墳」へと走っていった。
この古墳を訪れたのは中学生の頃以来?
なにせ全長200mを超える巨大な古墳のどこで今回発掘が行われたのか外見だけでは分からなかった。
古墳のヘンス沿いを歩いていると2人の人影が古墳中央部から降りてきた。
そこは前方部と後円部のちょうど 接するところあたり。
私は古墳へと草中の細い道を登った。
やがて後円部の頂上付近の木が伐採されているのが見えてきた。
さらに急な坂を後円部へと登ったが,発掘跡の土は埋め戻されていて,素人の私には何にも分からなかった・・・
菊苗?
菊苗は結局見つからず。
時代が変わったからか。扱っていない 店が多く,入荷しても売り切れてないのだそうだ。
「写真;墳丘は、南にある鳥見山から北へのびた尾根線を切り離し、成形して基底部とし、その上に東西の谷を掘削して得た土砂を盛り上げて築いたもの。後円部を北に、前方部を南に配した墳丘の規模は、全長約207メートル・後円部径約110m・同高約23m・前方部幅約61m。
墳丘の平面形は、柄鏡形を呈する前方後円墳の典型とされ、まっすぐに延びる前方部を特徴としている。またその立面形は、前方後円形の段築を2段重ねた上に、後円部だけに円墳状の3段目を築いた特徴的なもの。 後円部上面には、二重口縁壺形埴輪で囲まれた、東西約9.8m・南北約12.3mを測る方形壇状遺構があり、その地下には竪穴式石室が南北方向に築かれている。また墳丘の周囲には、一段低く掘り下げられた、逆台形の平面形をもつ周濠状の遺構がある。その規模は、前方部南側で東西幅約100m、後円部の東西で幅約150mを測る大規模なものだったが、現在は古墳の西側に一部分が残されているだけ。」
「どんな菊(の苗)?」と聞くと,「大輪の3本仕立ての・・・」と返事が返ってきた。
「今までそんなん買うたことなかったやん?」と聞き返すと,
「今年も挿し木をしたんやけど,あんまりエエことないねん。」と元気のない返事。
私は着替えて親父を助手席に乗せ買い物へ。
個人経営のお店を2軒,それからコーナンとコメリ,最後は農業屋へ。
なぜ最後に農業屋に行ったのか?
それは,農業屋のお隣の小さな山が,昨日ブログに書いた「桜井茶臼山古墳」やから。
車を農業屋の駐車場入れ,親父をお店に残して,私はデジカメを持って「桜井茶臼山古墳」へと走っていった。
この古墳を訪れたのは中学生の頃以来?
なにせ全長200mを超える巨大な古墳のどこで今回発掘が行われたのか外見だけでは分からなかった。
古墳のヘンス沿いを歩いていると2人の人影が古墳中央部から降りてきた。
そこは前方部と後円部のちょうど 接するところあたり。
私は古墳へと草中の細い道を登った。
やがて後円部の頂上付近の木が伐採されているのが見えてきた。
さらに急な坂を後円部へと登ったが,発掘跡の土は埋め戻されていて,素人の私には何にも分からなかった・・・
菊苗?
菊苗は結局見つからず。
時代が変わったからか。扱っていない 店が多く,入荷しても売り切れてないのだそうだ。
「写真;墳丘は、南にある鳥見山から北へのびた尾根線を切り離し、成形して基底部とし、その上に東西の谷を掘削して得た土砂を盛り上げて築いたもの。後円部を北に、前方部を南に配した墳丘の規模は、全長約207メートル・後円部径約110m・同高約23m・前方部幅約61m。
墳丘の平面形は、柄鏡形を呈する前方後円墳の典型とされ、まっすぐに延びる前方部を特徴としている。またその立面形は、前方後円形の段築を2段重ねた上に、後円部だけに円墳状の3段目を築いた特徴的なもの。 後円部上面には、二重口縁壺形埴輪で囲まれた、東西約9.8m・南北約12.3mを測る方形壇状遺構があり、その地下には竪穴式石室が南北方向に築かれている。また墳丘の周囲には、一段低く掘り下げられた、逆台形の平面形をもつ周濠状の遺構がある。その規模は、前方部南側で東西幅約100m、後円部の東西で幅約150mを測る大規模なものだったが、現在は古墳の西側に一部分が残されているだけ。」
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