あの日,亀山城を見てから「野村一里塚」へと向かった。
野村一里塚の少し手前の交差点に神社の看板発見!
その看板には,神社の名前とともに倭姫命のことも書かれていた。
倭姫命なぁ~
ここは鈴鹿に近い。
日本武尊や弟橘媛も関係するんやろか?
まぁ~「野村一里塚」を見てから行くことにしよう。
@忍山神社
鈴鹿川の北岸近く、集落の南はずれに鎮座する。
野村町の東北隅に愛宕山と呼ばれる海抜90mの丘陵があり、この南麓地点が旧社地と推定されている。
この旧地に神宮寺として神福寺と共にあったが、文明4年(1472)に、兵火のためことごとく灰燼となった。いま野村にある慈恩寺は神福寺の遺蹟とされている。
その後仮殿に祀られた。永禄の戦乱には、一時兵火を避けて白木山に御神体を奉遷したといわれ、中世におけるその荒廃は著しかつた。
この地は伊勢大神の御遷幸の地であるとされ、倭姫命が天照大神を奉じ、桑名野代宮から鈴鹿に来られた際、この忍山にて神宮を奉斎した忍山神宮の旧跡という。
日本武尊の妃弟橘媛(おとたちばなひめ)は忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられている。
布気皇館太神社を論社とする説もある。
式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。
@鈴鹿小山の宮(忍山宮)倭姫命御巡幸地
垂仁天皇(第11代天皇)御代に皇女倭姫が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和の国から忍山に御遷幸になった。その際神宮を造営し御鎮座になること10年、なおも南へ遷り坐したという。その跡をかしこんで大神を奉祀した。
野村一里塚の少し手前の交差点に神社の看板発見!
その看板には,神社の名前とともに倭姫命のことも書かれていた。
倭姫命なぁ~
ここは鈴鹿に近い。
日本武尊や弟橘媛も関係するんやろか?
まぁ~「野村一里塚」を見てから行くことにしよう。
@忍山神社
鈴鹿川の北岸近く、集落の南はずれに鎮座する。
野村町の東北隅に愛宕山と呼ばれる海抜90mの丘陵があり、この南麓地点が旧社地と推定されている。
この旧地に神宮寺として神福寺と共にあったが、文明4年(1472)に、兵火のためことごとく灰燼となった。いま野村にある慈恩寺は神福寺の遺蹟とされている。
その後仮殿に祀られた。永禄の戦乱には、一時兵火を避けて白木山に御神体を奉遷したといわれ、中世におけるその荒廃は著しかつた。
この地は伊勢大神の御遷幸の地であるとされ、倭姫命が天照大神を奉じ、桑名野代宮から鈴鹿に来られた際、この忍山にて神宮を奉斎した忍山神宮の旧跡という。
日本武尊の妃弟橘媛(おとたちばなひめ)は忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられている。
布気皇館太神社を論社とする説もある。
式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。
@鈴鹿小山の宮(忍山宮)倭姫命御巡幸地
垂仁天皇(第11代天皇)御代に皇女倭姫が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和の国から忍山に御遷幸になった。その際神宮を造営し御鎮座になること10年、なおも南へ遷り坐したという。その跡をかしこんで大神を奉祀した。
奈良の御杖村の名の由来もここら辺りですか・・
昔は大変だったのですね。
今で良かったなぁ^0^♪
元伊勢を辿るのも楽しいかもしれませんね。
想像以上にさ迷っていますよね。
どうして三輪から真っ直ぐ東の方に行かなかったのでしょうかね?
ひょっとして、風水で方角を選定したりとか・・・
あはは~~ありえないですか。
倭媛の巡幸何かの本で読み飛ばしましたが、いつもの如く。。
読んだ尻から忘れてちっとも前に進みませんです。
>倭媛の巡幸何かの本で読み飛ばしましたが、いつもの如く。。
私はまだ読んでいないので・・・
忘れることがないのです・・・