亀山城の天守閣があった石垣を見上げながら歩くと,亀山神社があった。
その神社の鳥居にむかって左手(南側)に,古風な門構えの建物。
神社参拝のあと,その門をくぐってみた。
その建物には「亀山演武場」という木の札が掛けられ,
そして柱には,「心形刀流」の解説が下がっていた。
「心形刀流」???
どこかで聞いたような・・・
幕末・・・新撰組・・・遊撃隊・・・司馬遼太郎
@亀山演武場
幕末、江戸四大道場の一つに数えられた心形刀流伊庭道場で免許皆伝を得た「山崎雪柳軒」が三重亀山に帰藩して、藩の剣術指南に任命され、後に心形刀流の道場を「亀山演武場」と名付けた。
以来145年余、現在まで途絶えることなく稽古が続けられ、心形刀流を伝承しているのは、唯一この亀山のみとなっている。
@山崎利右衛門(雪柳軒)
文政11年(1828年)に亀山藩江戸藩邸で生まれた山崎利右衛門(雪柳軒)は、八代 伊庭軍兵衛秀業から免許皆伝を受け、伊庭道場の師範代をしていましたが、元治元年(1864)3月13日に江戸詰めを解かれ亀山藩に戻り(37歳)自藩の剣士育成を始めました。
その三ヵ月後に伊庭秀業の息子であった八郎秀穎が亀山を訪れた際には、雪柳軒は高弟である大津央と接待にあたった他、亀山藩をあげて丁重にもてなしており、数日間の滞在中、八郎は連日朝稽古に参加した他、形を披露したことが記録に残ります。
元治2年(1865)、時の十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場「亀山演武場」が建設されました。この時期、亀山藩では柳生新陰流や鹿島新当流などがおこなわれていましたが、明治3年(1870)、十六代藩主石川成之により亀山藩の武芸流儀は心形刀流に統一されることとなりました。また、亀山藩では城内に藩士の部隊訓練をおこなう大道場を新設し、武芸局を創設、雪柳軒は武芸局撃剣係として大目付兼剣法教授教頭を拝命して門弟とともに藩士の教育に尽力しました。
明治4年(1871)の廃藩後、演武場は雪柳軒に下賜され武術の指導を続けましたが、明治9年(1876)には廃刀令が出されるなど、その存続の為の苦労は並大抵なものではありませんでした。事実、雪柳軒は私費で稽古着や竹刀、防具を購入し門人に無償で与えた他、就職斡旋まで行っており、さらに演武場の維持運営の為に門人有志と「赤心社」という組織を作りました。
明治15年(1882)、演武場は赤心社により旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移転しますが、雪柳軒は明治26年(1893)9月5日に故あってそこで割腹自殺しました。
その神社の鳥居にむかって左手(南側)に,古風な門構えの建物。
神社参拝のあと,その門をくぐってみた。
その建物には「亀山演武場」という木の札が掛けられ,
そして柱には,「心形刀流」の解説が下がっていた。
「心形刀流」???
どこかで聞いたような・・・
幕末・・・新撰組・・・遊撃隊・・・司馬遼太郎
@亀山演武場
幕末、江戸四大道場の一つに数えられた心形刀流伊庭道場で免許皆伝を得た「山崎雪柳軒」が三重亀山に帰藩して、藩の剣術指南に任命され、後に心形刀流の道場を「亀山演武場」と名付けた。
以来145年余、現在まで途絶えることなく稽古が続けられ、心形刀流を伝承しているのは、唯一この亀山のみとなっている。
@山崎利右衛門(雪柳軒)
文政11年(1828年)に亀山藩江戸藩邸で生まれた山崎利右衛門(雪柳軒)は、八代 伊庭軍兵衛秀業から免許皆伝を受け、伊庭道場の師範代をしていましたが、元治元年(1864)3月13日に江戸詰めを解かれ亀山藩に戻り(37歳)自藩の剣士育成を始めました。
その三ヵ月後に伊庭秀業の息子であった八郎秀穎が亀山を訪れた際には、雪柳軒は高弟である大津央と接待にあたった他、亀山藩をあげて丁重にもてなしており、数日間の滞在中、八郎は連日朝稽古に参加した他、形を披露したことが記録に残ります。
元治2年(1865)、時の十五代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場「亀山演武場」が建設されました。この時期、亀山藩では柳生新陰流や鹿島新当流などがおこなわれていましたが、明治3年(1870)、十六代藩主石川成之により亀山藩の武芸流儀は心形刀流に統一されることとなりました。また、亀山藩では城内に藩士の部隊訓練をおこなう大道場を新設し、武芸局を創設、雪柳軒は武芸局撃剣係として大目付兼剣法教授教頭を拝命して門弟とともに藩士の教育に尽力しました。
明治4年(1871)の廃藩後、演武場は雪柳軒に下賜され武術の指導を続けましたが、明治9年(1876)には廃刀令が出されるなど、その存続の為の苦労は並大抵なものではありませんでした。事実、雪柳軒は私費で稽古着や竹刀、防具を購入し門人に無償で与えた他、就職斡旋まで行っており、さらに演武場の維持運営の為に門人有志と「赤心社」という組織を作りました。
明治15年(1882)、演武場は赤心社により旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移転しますが、雪柳軒は明治26年(1893)9月5日に故あってそこで割腹自殺しました。
まだ全然
荷物の片付けが進まず
段ボール箱部屋状態ですが…
いつ
奈良的生活に入れるのか
まだまだわかりません(笑)
一人なら絶対見ない「さや侍」です。
せっかくだから、楽しもうと思ってみておりましたら。。ラスト近くで泣いてる方も。。
少しづつ孫が私の人生に滲入、脅かされていまっす。><;
>無事?奈良市民になりました
ブログを拝見すると、しばらく休まれるとのこと。
引越しだったんですね。
奈良の夏は、またまた暑いですよ(;゜Д゜)!
昨日、家人と映画に行こうかと言っていたところです。
夕食後に夫婦割。
暑い夜は涼しい映画館で!
「さや侍」も候補の1つです。
孫・・おばあちゃん、私が付き添っている事にして!・・
わたし・・目が点ーーー。
千葉道場は北辰一刀流、あと神道理念流の道場と
もう一つで江戸三大道場…なんだったかなぁ?
でも「心形刀流」では無かったような…
ああ、どんどん砂が崩れるように忘れていきますわ~
あっ!忘れた~と思ったときは既に遅し~
橘恭太郎(咲の兄)に同行を断られ、幕府側の人間として
単身突撃していった人でしたっけ??
ダブルかもしれませんがもう一度…。
伊庭八郎って、ドラマ「JIN」で咲の兄に同行を断られ、
幕府側の信念を曲げずに単身突撃していった人では
ないでしょうか?
正確に云うと、夫婦50割で観に行ってるんです!