![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/83/8c6839c2907506cb021cf1472efba9a8.jpg)
先日,鳥屋ミサンザイ古墳「宣化天皇陵」の横を通りかかった。
鳥屋ミサンザイ古墳は,全長138mの前方後円墳。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/76/84de033ec85a8c6271a599c832f20caf.jpg)
第28代宣化天皇は、26代継体天皇の第2子で、27代安閑(あんかん)天皇の同母弟。
安閑天皇に後継がなかったため乞われて即位したとされているが、この兄弟は実は即位しておらず、継体天皇の次は 29代欽明(きんめい:継体天皇の第4子)天皇だとする説もある。
これには、安閑・宣化の2帝を推す大伴氏と欽明帝を推す蘇我氏との対立が反映しているという。
明治政府は二帝が即位したと判断したようである。
天皇は即位後、都を檜隈の廬入野(いおりの)に移し、旧臣大伴金村と物部麁鹿火(あらかい)をともに大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目を大臣に、そして阿倍大麻呂臣(あべのおおまろ)を太夫(まえつきみ)とした。
その翌年仁賢天皇の娘橘仲皇女(たちばなのなかつひめ)を立てて皇后とした。
その年の5月天皇は詔を出して、筑紫国那津の官家(みやけ)に各地から食料を移送して、非常時に備えた。
大伴金村大連以下の臣下に命じて、各地の屯倉から籾を運ばせたとあるが、これは、新羅の圧政に苦しむ任那と百済を助ける目的と、万が一の新羅侵攻に備えてのものと考えられるそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/a8/06bc6fd30210de5f92b3d0b09bca9fe8.jpg)
安閑・宣化天皇の時代には、多くの屯倉が設置され、皇室の財力が一段と強化されるとともに、和風諡号が贈られるなど、天皇権力が著しく拡大した可能性が指摘されている。
73才で没したとされているが、天皇であった期間は没するまでの4年間である。
鳥屋ミサンザイ古墳は,全長138mの前方後円墳。
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第28代宣化天皇は、26代継体天皇の第2子で、27代安閑(あんかん)天皇の同母弟。
安閑天皇に後継がなかったため乞われて即位したとされているが、この兄弟は実は即位しておらず、継体天皇の次は 29代欽明(きんめい:継体天皇の第4子)天皇だとする説もある。
これには、安閑・宣化の2帝を推す大伴氏と欽明帝を推す蘇我氏との対立が反映しているという。
明治政府は二帝が即位したと判断したようである。
天皇は即位後、都を檜隈の廬入野(いおりの)に移し、旧臣大伴金村と物部麁鹿火(あらかい)をともに大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目を大臣に、そして阿倍大麻呂臣(あべのおおまろ)を太夫(まえつきみ)とした。
その翌年仁賢天皇の娘橘仲皇女(たちばなのなかつひめ)を立てて皇后とした。
その年の5月天皇は詔を出して、筑紫国那津の官家(みやけ)に各地から食料を移送して、非常時に備えた。
大伴金村大連以下の臣下に命じて、各地の屯倉から籾を運ばせたとあるが、これは、新羅の圧政に苦しむ任那と百済を助ける目的と、万が一の新羅侵攻に備えてのものと考えられるそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/a8/06bc6fd30210de5f92b3d0b09bca9fe8.jpg)
安閑・宣化天皇の時代には、多くの屯倉が設置され、皇室の財力が一段と強化されるとともに、和風諡号が贈られるなど、天皇権力が著しく拡大した可能性が指摘されている。
73才で没したとされているが、天皇であった期間は没するまでの4年間である。
淑人乃 良跡吉見而 良常言師 芳野良見与 良人四来三
(よきひとの よしとよくみて よしといひし よしのよくみよ よきひとよきみ)
天武天皇が吉野へ行った時によんだらしい。よき人とは上代にいた賢人、吉野は世に異なる良いところぞと褒めた歌は歌集に多く、今のよき人は君にこそあれば、よく見よかし・・・
そのあと同じ1巻に
藤原宮御宇天皇代(後に持統と申す)
右日本紀日三年巳正月天皇幸吉野宮、八月幸吉野宮、四月庚寅二月幸吉吉野宮、五月幸吉野宮、五年辛卯正月幸吉野宮、四月幸吉野宮・・・とありますが・・・・ボロボロの父の持っていた万葉集略解、、橘千陰著・・・によりますが・・・
これほど吉野へよく行ったのは無き天武天皇を慕ったからでは???と思ったからかもしれません。
吉野山の桜が有名になったのは,平安の時代からだとか。
この頃の吉野とは,“宮滝”のことかも知れませんね。