日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

答弁

2017-07-26 08:38:30 | 日記
「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。」詩篇107:8



国会の予算委員会のTV中継を全面を見た訳ではないですが、問題の核心に触れるとはぐらかすのが何と旨なぁ、と変なとこで感心します。日常訓練してられるのか、頭の回転が良いのでしょう。しか~し1国の首相がすっきり出来ないのでしょうかね。夫と皆罪人だからなぁ。。。と。



湿気が多いのには参ります。少し動けば汗がダーと。今日はお客様を迎えます。良い交わりになれますように。

上の言葉
猛暑がつづいていると寒かった冬のことなど忘れています。気候変動はあっても、季節はまちがいなく移っていきます。これもまた主の恵みと言うほかありません。神様の確かな愛のみ手にありながら、それを忘れて、落胆し、無気力になり、スランプに落ち込みます。落ち込んだ心を持ち上げてくださるのは神様です。心を主に向けるには、主の恵みを振り返り、感謝することです。この夏の恵みを味わってください。(KE)



暴漢

2017-07-25 08:57:30 | 日記
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b



昨日、友人から電話があり、この町物騒よ、暴漢が3件あったとのこと。まず初めに彼女の結婚した娘さんが里帰りしていた時に遭遇して、怪我をしたのは聞いていた。その後2件あったとか。後ろから見たら老若は解らないから気をつけないとイカンよと。またもう少し南部の町にも出没したらしい。



白昼のまだ学生の下校でなく、犬の散歩の夕方までらしい。まだ捕まってないとのこと。そういえば昨日、警官の訪問があった。「何か変わった事はありませんか?」とのこと。これといってないですが、電話で「あなたは一人暮らしですか?」と言うので、これは犯罪者か、と電話を切りました」と告げた。何かあれば言って下さいとのこと。



高齢化した町。買い物は午前にすませ、殆ど家にいる白昼を狙うのか。後ろから抱かえてバンと倒すので、怪我をする。出没する曜日は決まってるらしい。えらい事です。

上の言葉
 これはアブラハムの信仰を語った言葉ですが、私たちにも信じる神様がどのような方であるか、はっきり示したものです。神様を信じても、どこかで疑う思いが消えません。神様より自分のほうが確かなように思ってしまうのです。そうである限り、心に確信がなく、信仰がゆれて、不安が続きます。アブラハムのように、神様にはできないことがない、全能者であると信じてしまうことが幸いです。(KE)


日陰

2017-07-24 08:21:16 | 日記
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」詩篇118:1



夏の日の日陰はほっとしますね。蝉の声がけたたましいです。これも夏の風物詩。夏しかない情感をしっかり受けとめたいです。注射後5日が過ぎ、ようやく体も立ち直れた気がします。視力は水が引いて来のか、以前に戻つつあります。この黄斑変性症はどの病もですが、人により違うと感じます。人により注射してもいつもと変わらない、という人あり。また手術で入院の人あり。私の前の大学病院の先生は5日間は静かにしてる様にと言われました。そうそう病院により1日入院させる先生もあります。



健全な時の眼が懐かしいですね。BBSがあり、多くの人と交流。写真はバンバン撮ってました。今はそれが出来ない。病気になった人は皆そんな気持ちでしょう。そうそう年を忘れてました。気持ちだけは若いのです。。。でも失明ではなく感謝です。



この画像は夫の教会です。ハーブや薔薇の香りがかぐわしく、ぶぞうが今年は実を着けました。この後、枝を横に這わせ来年は多くの実を結ぶでしょう。

上の言葉
昨日は主の日、聖なる日です。一週間の旅路が終り、また新しい旅が始まります。その終りと始まりに神様へ感謝讃美を奉げることはまことに幸いなことです。過ぎてきた日々も、いろんなことがありましたが、神様の慈愛に満たされ、守られてきました。いまなお問題や苦しみにあるとしても、まず、感謝しましょう。また、これから世に遣わされる日々を、主の恵みに期待しつつ、信仰をもって踏み出そうではありませんか。(KE)

引きこもり生活

2017-07-23 02:54:24 | 日記
「ピリポは彼に言った、『きて見なさい』。」ヨハネ1:46b



5日間近く家の中で炊事や少々の雑用以外はベッドに寝そべってTVを見る以外仕方のない生活をしていました。本は細かい字で今の段階では読めないですから。段々読めるだろうと期待はしています。TVもニュースや政治番組が案外見ている自分がいます。だってバラエテイやサスペンスを見ても飽きてしまって。政治の番組では本当にややこしい。誰が嘘をついてるのだろう?「書類を捨てた。」や「記憶にありません。」はそんな大事な事はありえないでしょうに。嘘は必ず表面化するでしょう。つじつまが合うようにかなりの努力を今されてる気がします。

今日は礼拝。やっと外出です。

上の言葉
ピリポはイエス様に会って、大喜びをしましたが、ナタナエルはナザレから立派な人物など出るはずがないと主張しました。何とかイエス様を伝えたいと願い、ピリポが言った言葉です。「きて見なさい」。「百聞は一見にしかず」といわれるように、言葉巧みに説明を尽くしても、ものの実相は伝わりません。まさに「見て」「手で触り」「味わう」など、実体験にまさるものはありません。イエス様も、万巻の書より、みことばを信じて体験して悟ることが大切です。(KE)

日野原重明先生の召天

2017-07-22 09:04:21 | 日記
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10 



私の眼の治療の間に日野原先生は召されました。昨年だったか、京都レデイースランチョンの講師として来て下さる予定でしたが、来られなかったので、体調が悪いのかと予感がしていました。よくぞ現役で医師として良き働きをされたと、実に見習うべき方でしたね。年を重ねるのが嬉しいと言われ、天に希望を持つ時そうなんだ、と納得します。



先生は牧師の子として生まれ、自分もクリスチャン。主に忠実に生きられたと思います。終末医療に全力をかける。多くの良き働きでした。自分も最後を「ありがとう。」と言って死にたいと言ってられましたが、我々も感謝をもって、ありがとう、と言いこの世を去りたいものです。

目の中の水が無くなるのは今回は注射が遅れたので半月から1か月はかかると思います。いつもの様にまた快復を願っています。

上の言葉
イエス様の十字架は「死」と「いのち」の交差点です。主は私達の罪を負うてくださって、神様の刑罰を受けてくださいました。その結果が「死」です。言うならば私たちが死んだのです。後に、主は墓からよみがえって、新しい命の始まりとなりました。私たちもその命に生かされて生きるものとなりました。日々、キリストの死と一体化して、自分に死んで、よみがえりの命を頂き、生きる者となってください。(KE)