いまちょっとネットで話題になっている「個人ブログで『悪口』 それはもう危険なのだ」という記事を読んで思ったのは、なんとも大げさなタイトルだって話。取り上げられている話もレベル低いし、要は確信犯的にモノを言ってるかどうかが試されているだけ。だから、わたしは言いたいことを言いますよ、なんの衒(てら)いもなくね!
記事で話題になっているのは、顧客の悪口をネット(MIXI)で書いたことから、ブログが炎上、プライベートが暴露され、会社が謝罪といったようなことが起きているという事例なんだけど、正直いって、語るに落ちる内容って感じだし、よしんば本気で言っていることなら、炎上しようが職場を解雇されようが本望ってとこだと思いますけどね。
結局、覚悟の問題なんだけど、2CHが怖くて発言を訂正したりするくらいなら発言しなければいいし、たくさんのペンネームを使って反体制記事を書いていたレジスタンス作家たちの根性を学ぶなら、炎上だって命を狙われるわけじゃあないんだから、たいしたことないって思うんですけど、どうなんですかね?乙武さん?
わたしは、雑音も含めネットは言葉の解放区でいいと思っているけれど、個人情報を漏らすような同僚がいたとしたら、そんなバカとは決闘でも裁判でもやったらいい話。言葉は一面刃物みたいな機能を持つけれど、闘争心とか自立心のない人の言葉なんか聞いてられないし、そういう意味では、どうせ勲章なんかもらえそうもないヘタレばかりのネット右翼の連中なんかも、わたしには説得力はまるでなし。
(第一、彼らから日本の文化に関する鋭い考察なんて聞いたことがない!戦争だけやってたわけではないんだよね、昔の日本だって。それに、国立劇場の独立行政法人化に反対した右翼なんかいなかったじゃん?)
てなわけで、カラダ張ってるなら悪口だろうがなんだろうが、書けばいい話。そして、カラダを張る価値のないことならはじめから書かなければいい。「危険」を回避するための言葉なんて、一番ネットにふさわしくないんだって思いますよ!ねぇ~きっこさん!!
記事で話題になっているのは、顧客の悪口をネット(MIXI)で書いたことから、ブログが炎上、プライベートが暴露され、会社が謝罪といったようなことが起きているという事例なんだけど、正直いって、語るに落ちる内容って感じだし、よしんば本気で言っていることなら、炎上しようが職場を解雇されようが本望ってとこだと思いますけどね。
結局、覚悟の問題なんだけど、2CHが怖くて発言を訂正したりするくらいなら発言しなければいいし、たくさんのペンネームを使って反体制記事を書いていたレジスタンス作家たちの根性を学ぶなら、炎上だって命を狙われるわけじゃあないんだから、たいしたことないって思うんですけど、どうなんですかね?乙武さん?
わたしは、雑音も含めネットは言葉の解放区でいいと思っているけれど、個人情報を漏らすような同僚がいたとしたら、そんなバカとは決闘でも裁判でもやったらいい話。言葉は一面刃物みたいな機能を持つけれど、闘争心とか自立心のない人の言葉なんか聞いてられないし、そういう意味では、どうせ勲章なんかもらえそうもないヘタレばかりのネット右翼の連中なんかも、わたしには説得力はまるでなし。
(第一、彼らから日本の文化に関する鋭い考察なんて聞いたことがない!戦争だけやってたわけではないんだよね、昔の日本だって。それに、国立劇場の独立行政法人化に反対した右翼なんかいなかったじゃん?)
てなわけで、カラダ張ってるなら悪口だろうがなんだろうが、書けばいい話。そして、カラダを張る価値のないことならはじめから書かなければいい。「危険」を回避するための言葉なんて、一番ネットにふさわしくないんだって思いますよ!ねぇ~きっこさん!!
確かに、今の法律には「決闘罪」というものがあって、これは、もちろん舶来物である近代刑法が、私闘というものを禁じていく過程のなかで量刑の体系を築いていったという、歴史的にも興味深い<遺物>としての「犯罪」だったりしますが、最近の日本ではヤクザやヤンキーの喧嘩に適用しているらしいですね。
「決闘罪」に関する文章は、先日亡くなった歴史学者・阿部勤也さんの本で読んだ記憶がありますが、久々に思い出しました。
ただ、わたしは「世を儚んで自殺するくらいなら、かっぱらいでもなんでもやって生きていく方がまし」という吉本隆明の考え方を信奉しているので、そもそもあんまり順法精神を持っていない人間です。
したがって、戦おうと決めたなら、合法非合法なんでもやるべしと考えているので、決闘で死んだ作家プーシキンや数学者ガロアを見習わないまでも、自説のために意地を張る覚悟くらいはあるという意味で「決闘」って書いてみたんですが、不穏当だったかな?
というわけで、「仇討ち復活」を唱える呉智英とともに「決闘」を唱える切られお富ってことで、ご勘弁を!ではでは!
切られお富さんが「確信犯として」書いておられるのであれば、
それは筆者の哲学として、認められるべきであろうと思います。
プーシキンが例として適切であるかについては、やや疑問ですけどね。