「入学式や卒業式での国旗国歌の強制は違憲」と判断した東京地裁判決をめぐっては、さまざまな意見が出ているんだけど、地裁の判断にはわたしは賛成で、確かに国旗国歌で懲戒処分はやりすぎなんじゃないかとは思う。ただ、わたしは教師サイドにも都教委にも全然シンパシーを感じないし、こんなことはどうでもいいと思っている生徒や父兄が大半だって思えてしょうがない。第一、近年の卒業式なんていうのは、生徒の仮装パーティーみたいなものなんであって、セレモニー的なところなんて、だ~れも興味なんかないに決まってる。因みに、わたしは卒業式ってめんどくさくてサボっちゃった口なんですけどね~。
式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違憲」 東京地裁 (朝日新聞) - goo ニュース
結局、生徒を置き去りにした左右陣営対決が根底にあるわけだけど、国旗国歌を学校の式典で使ったって、生徒のモラルが上がったり、愛国心が芽生えるわけでもない。だいたい、わたしは校歌ですらまともに歌った事のない学生だったけど、ちゃんとそれを歌えなんていうのは、勉強を教えることの苦手な(!)ダメ教師と相場が決まっていた!(だから、インドとか韓国に抜かれますよ、きっと。)
結局、国旗国歌問題は歌や旗の問題ではなくて、それを何かの評価にしようという人たちの問題であって、内申書や査定に通じる話になっているんだと思う。(つまり今回は一種の労働裁判。)そのあたりの「思想信条の自由」ということでなら、今回の地裁の判断はわたしは至極真っ当だと思いますけどね。(地裁は国旗国歌の問題を「懲戒処分」の対象にしたことを違憲といっているのであって、地裁批判派はそのあたりを読み違えている。地裁も国旗国歌をないがしろにしろといっているわけではないんですよ、小泉君と石原君。ただし、心の問題ですから。)
・国旗及び国歌に関する法律(因みに、この法律自体は滅茶苦茶シンプルです。)
結局教師間の対立を生むだけのこんなつまんない問題は棚上げにして、「小学校の校内暴力問題」や「学力低下」に本腰を入れたほうがいいんじゃないかっていうのが、大方の親御さんの思いのはず。さもなければ、夜回り先生の後について渋谷を一周でもしてもらった方が、教育者らしいんじゃないですかね?
・校内暴力:公立小、初めて2000件突破 「対教師」38%増--05年度
なお、一部の識者の暴論で、「裁判所は現場を知らない」という言い方がありますが、「現場の声」とやらで揺らぐような憲法判断なんてはっきりいって論外。「識者」じゃなくて、色物の「色者」なんじゃないのって言いたいですね、わたしは!(しんぼうじろうなんかのことを言ってます!)
式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違憲」 東京地裁 (朝日新聞) - goo ニュース
結局、生徒を置き去りにした左右陣営対決が根底にあるわけだけど、国旗国歌を学校の式典で使ったって、生徒のモラルが上がったり、愛国心が芽生えるわけでもない。だいたい、わたしは校歌ですらまともに歌った事のない学生だったけど、ちゃんとそれを歌えなんていうのは、勉強を教えることの苦手な(!)ダメ教師と相場が決まっていた!(だから、インドとか韓国に抜かれますよ、きっと。)
結局、国旗国歌問題は歌や旗の問題ではなくて、それを何かの評価にしようという人たちの問題であって、内申書や査定に通じる話になっているんだと思う。(つまり今回は一種の労働裁判。)そのあたりの「思想信条の自由」ということでなら、今回の地裁の判断はわたしは至極真っ当だと思いますけどね。(地裁は国旗国歌の問題を「懲戒処分」の対象にしたことを違憲といっているのであって、地裁批判派はそのあたりを読み違えている。地裁も国旗国歌をないがしろにしろといっているわけではないんですよ、小泉君と石原君。ただし、心の問題ですから。)
・国旗及び国歌に関する法律(因みに、この法律自体は滅茶苦茶シンプルです。)
結局教師間の対立を生むだけのこんなつまんない問題は棚上げにして、「小学校の校内暴力問題」や「学力低下」に本腰を入れたほうがいいんじゃないかっていうのが、大方の親御さんの思いのはず。さもなければ、夜回り先生の後について渋谷を一周でもしてもらった方が、教育者らしいんじゃないですかね?
・校内暴力:公立小、初めて2000件突破 「対教師」38%増--05年度
なお、一部の識者の暴論で、「裁判所は現場を知らない」という言い方がありますが、「現場の声」とやらで揺らぐような憲法判断なんてはっきりいって論外。「識者」じゃなくて、色物の「色者」なんじゃないのって言いたいですね、わたしは!(しんぼうじろうなんかのことを言ってます!)
国旗・国家の問題じゃなくって、あるスタンダードに従わないなら、それによって社会的不利益をこうむるのは当然である、という懲罰スタイルがまかり通るならば、それに対抗する一方のエネルギーが十分に教育に振り向けられるとはとても思えない。
子どものことを一番に、かつ十分に考えることの出来る環境ではない教育現場に、どの親が我が子を置きたいと思うのでしょうか。
よって、教育委員会の指導の及ばない私立に子ども達は流れていくのです。
ここでも「塾に通わせる余裕があり、かつ私立の授業料も払える家庭の子」と、「いやでもおうでも公立に行くしかない子」とで、心の自由のあり方についてのダブルスタンダードが生まれ、格差は広がっていくのです。