水陸両用トラクター
http://www.uraken.net/military/tank/lvt.html
5月上旬のこと、報道2001を見て思ったことは、このような大臣を持つ我邦は、戦後の困窮は、いかほど続くのかとの感であった。農業の近代化とか、集約化とか言っていたがこれこそ、日本農業が米国(米穀=アメリカ農地強盗権力が脱皮して軍産複合の鎧を纏った)の俎上に載ると謂うことである。『株式日記と経済展望』のTORA氏は、専業農家の耕作面積が、15ヘクタールと想定されたが既に、この程度の耕作面積を専業農家は、借地も入れれば耕している。それ故に米の価格がこのような低価格でも、なんとか凌いでいるのである。近代化とは聞こえは良いが、米国農業と同じ土俵で戦わせて、日本国の食糧自給機能を根底から破壊しようという企みにこそ焦点を当てねばならぬ。規模から言えば米国の農業は今から40年ほど前でも、日本の一農家の百倍ほどの、耕地を耕作していた。今日では、穀物メジャーの介在により、その寡占は一層進んでいる。この農業と競争して勝てる農業とは、いくら馬鹿でもそれは言えまい。このような与太が謂えるのは真性のとんでもない馬鹿か、侵略米穀の提灯持ちかのどちらかである。従米の提灯学者ならば匂いですぐに判別できる。厄介なのは日本のためを心の底から案じている側のものが、「農業の近代化」を言い出した場合である。
日本の農業人口は全就業者の3%程で専業者はこれより遙かに少ない。であるからネットに載せられる農業に関する意見の多くは、想像の産物である。農業を実際に体験したものの記述は極めて少なくなる。農業の現実は知らないが、農業に関する情報はマスコミの中にあふれている。これらのマスコミ情報はある意図により偏向しているが、実態を知らねば悪意に対する批判も湧かぬし、その悪意すら感じられずにいとも簡単に同意してしまう。
日本のほとんどの人たちは農業をマスコミの知識だけで知った気になっている。只、農産物を食せぬ日は一日足りとて無い。生産はせぬが消費はする。毎日消費する。これに掛かる金銭は無視できぬ金額である。ならば、実感として思うのは、安くて高品質。
マスコミ基調で想像するので日米間の農業環境の決定的差異は端から捨象されている。農地の広さのめくるめくほどの違いは、さっと流すだけ。深くは考えさせない。それともう一つ、アメリカの国益と日本の前世紀の歴史は隔離して、思慮の範疇から隔絶させる。これらをなるべく具体的に取り上げないでの論議になる。食べる側からすれば、安いが魅力の人は多かろう。農業問題のすべての出発点が、安い食糧この一点に集約される。
石破大臣が近代化や農地の集約などと、担当大臣にしては片手落ちの話ばかりなので、途中で気分が悪くなったので視聴を止めた。農業は国家にとって重要な部門であり、殆どの国は手厚く保護している。この、各国毎の具体的な実情に迫らぬかぎりは、現実的な論議にはならない。石破大臣は日本国の国益を損ない、米国の利益の代弁者であった。
農産物、とりわけ穀物の持つ意味は、原油や天然ガスと同じような意味を持つ。いや、真実はそれ以上の重大な、戦略的意義を内包している。日本のような森林資源の保存されている国では、非常時でもエネルギーは、生命保持の最低限は何とかなる。(当然、このような事態では、国家機能は停止か、崩壊しているが……。)しかし、国防機能が停止して、国際食料貿易の自由が決定的に制限されれば、日本国民の多くは死ぬしかない。たしかに計算上では今以上の国民を養うだけの、国土はあるだろう。しかし食料生産と流通=分配は、適切な政治と経済あって成り立つものである。終戦直後なら、あのようにして凌ぎもした。しかし人口も増え都市化が進み、農業を全く知らない国民が殆どを占める現在では、「食料安全保障」の問題は、終戦直後より本質的には遙かに深刻である。それをカバーしているのが、食料安全保障の重要さを認識している世代がまだ健在で、身を挺して農地を保全しているからにすぎない。次の世代になれば状況は一変する。飢餓を知らず米国の血に飢えた悪意にも気づかず。権力者の悪意を知り得ぬ世代になれば、日本農業は崩壊の危機さえある。このような中にあって、農地の集約近代化を言うだけでは、嘗て構造改革で日本産業の成長発展の骨を抜き、産業の血液たる金融を米穀金融に丸投げした、構造(金融)改革の、愚かな轍を踏むこととなろう。
自衛農家が壊滅的に押し潰され、替わって金融資本の手先の農業株式会社が日本農業の中枢に座れば、農業経営者の数は激減して日本の中間層の重要な一角が突き崩される。農業の部門にも出現するのは、世界資本とそれに隷属したサラリーマン(本質的に表現すれば、言われるままに労働力を提供させられる、労働者と言った方が正確ではある。)
先の大戦後の混乱にあって、食糧事情はとても混乱した。しかし大量に餓死者が出るような事態には至らなかった。なぜならば食料と都市部の財の交換は、物々交換ででも継続されていたからである。しかし例えば、100ヘクタールあるいは、1,000ヘクタールの農地を耕す農業法人に対して、非常時に物々交換経済が機能するだろうか。猿山の猿に適量のバナナを与えれば、平和である。しかしそれに倍するバナナを与えると、それを専横するよからぬ強欲猿が現れて、かえって食料分配の機能を阻害する。必要量以上の通貨=信用が溢れれば、アメリカ等の強欲非道の金融資本の専横が興り、遂にはそのシステムを破壊するのは、つい最近見たことである。
戦争は確かに、1945年に終わった。しかし戦後統治がアメリカによって行われているのは、諸兄の共有する認識である。戦後民主主義教育に名を借りた、アメリカ民主主義賛美のイデオロギー攻勢は、マスコミも取り込んで今日まで隆盛している。その甲斐あってアメリカの振りまく幻想は、あたかも科学や真理のように我が日本国民には受け入れられている。これが一般である。経済は明治以降から金融産業資本主義が、欧州より移植されてきた。事業を興して過激な競争に勝つには設備や機械とそれを収める建物そして土地が必要である。金融資本はその経済の要求・弱みにつけ込んで経済を支配した。
世界金融資本はそれぞれの持ち場で、その悪魔的能力を遺憾なく発揮した。ほとんどの工業国の国民を、集団ヒステリーに落とし込んだ。大衆報道機関、マスコミの悪魔的な力の発揮である。日本国に於いては『朝日新聞』の悪名が高い。そして戦後である。
兵は、「日米安保条約」により、失った。
信は、「アメリカ型民主主義」賛美で、実は日教組とマスコミの洗脳の下にある。
そして、【食】はなんとか、持ちこたえたが、ほとんどの保守勢力のブロガーも、乗せられたように、カーギルやADM(Archer Daniels Midland)の怪力の下に、日本農業はまた1インチ、地獄の淵に引き寄せられたようである。
農地法の改悪が与党はもとより、民主党の賛成で成立した。農地の法人取得保有をまた一歩進めた。アメリカ農業資本の目途は、日本農業の完璧な支配である。農地の保有である。日本を買う。ゼニは、輪転機があるから、なんのことは無い。まさか、そんなと、良識のある(本当は、世界常識に欠ける)日本人はそう思うだろう。まさかの前の大戦を引き起こしたのは、世界金融の邪悪な力である。日本人は太平の江戸時代を過ごしているので、人治の徳を信じている。しかし、資本主義システムの冷酷さは知らない。知っても忘れた。忘れさせられた。羊は慈しみ育てる物だが、遂には喰われるべき存在である。これが、彼等の、怜悧な倫理である。
農業補助金は、平時の、兵站費用である。
アメリカ農業補助金は70億ドルつまり、約6、800億円である。日本国の25倍の国土を持つアメリカが、これだけ補助金をつぎ込んで鍛えた平時の兵器が、雨あられのように降り注いでくる。日本の農業補助金はたかが2,000億。気の遠くなるような広大な農地を持つアメリカは、日本の6倍以上の補助金を付けて輸出にドライブを掛けてきている。この現実を無視して、日本農業の近代化と土地の集約化を、語ることは痴呆の寝言に等しい。いや寝言なら家人が五月蠅いだけだが、こと食糧安全保障である。おめでたい人たちは前年の夏には、鶏の飼料が1袋20㎏で2,000円だったことは知らぬだろう。そして、ユダヤ金融が崩壊した、昨年の秋にはそれが半値以下の980円に下がったことも知るまい。ましてや反金融資本主義の日本農業が阻喪したならば世界の農地は、ドミノ式にユダヤ金融の所有となることにも、思いはおよばぬ。そして日本の人々がバタリーで飼われるニワトリのように奴隷の状況に堕ちることは、夢にも思わぬであろう。安い食糧の罠に落ちれば、中間層は我が身の脂身を食われ、下層は一生より劣悪な条件下で働く奴隷となる。
どのみち日本国の農家は、政治など信じていない。国土は、耕地は自分で守るしかない。幸いなことに、現在の耕作地を守るだけで、最低限の食糧は充分に確保できる。農政のことは、敗戦国の悲哀と甘受するしかあるまい。日本農業は経済的、財務的には、既にとっくの昔にホウカイしている。知らぬが、ホトケのああ、ほうかい。日本人が自国の米を食えるのは現代の屯田兵のお陰である。日本農政なんてのも、とっくの昔にオダブツになっている。近代化なんて言う知らぬがホトケの繰り言は、聞きたくもない。気分が悪くなるだけである。経済学を志すならば、スペインで何故、小麦を輸入せざるを得ないのか、学ぶべきである。日本農政は、山本なんたらの親の時代からアメリカ米穀の支配下にある。
石破は小泉に防衛を、押さえるように信任されたものである。なまこみたいな解りずらいヤツだが、『カイカク派』には違いあるまい。前年、肥料の値段が倍になった。農林中金は、損失何千億円とごまかしているが、実情は深刻。米穀への与信残高を見れば判る。かの追米金融は、農林族の主要な天下り先である。
日本国の農地の簒奪には、まだ間がある。それに至にはまだ幾つかの段階を経なければならぬ。その詳細は此処では述べぬ。無意味であるし有害かも知れぬ。
一般の、土地を持たない、地球市民にしてみれば、安い食料の方がありがたい。
農地や産業手段をもつ、『国民』にしてみれば、値段には適切な価格がある。
人は自然に人であるのではなく、国あっての人である。
先の大戦は、官僚や政治そして軍に侵入した営利主義と、コミンテルンの幻視の平等主義に脳髄を犯された、無自覚な売国の徒が国体を空疎な物とした。
現在日本は、政治的アパシーと経済的無知により、国富を米国金融に奪われた。産業も、成長力の芽が蚕食されている。農業は、世代交代の虚を突く形で土地の集約化、つまり法人による寡占への道は拓かれてしまった。
日本産業が活況を呈するには、成長に伴う赤字を補填する金融支援が必要。構造改革はその構造に不良債権の汚名を着せて押し潰した。真逆の政策である。かんぽの宿の評価を徹底的に毀損して、三井住友の手下にくれんとしたように。長期信用銀行には、朝鮮銀行の血脈が流れていた。売国そして朝鮮の血がどうのとの噂もある、小泉はこれを潰して地獄の狗に喰わせた。武力での戦いは一応止んでいる。しかしあれだけの惨禍のあった大戦である。歴史を知らぬ者だけが、暢気に昼寝して寝言を言っている。
資本主義の行き着く先は、戦争であった。現代は、その修正資本主義は平和主義のようでもある。修正資本主義が言われたのは、東西対立の時代であった。ソ連が崩壊して資本主義は先祖返りをした。そのような観もある。ならば心ある者は戦争に備えねば為らぬ。嘗ての戦争では、兵站をおろそかにした官僚軍人が、太平洋を水漬く屍の海にした。国際政治と人間の本義を知らぬ、阿呆に政治経済を任せてはならぬ。日本国の国土が、奴隷農場 奴隷工房になるではないか。