我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

フランスのの奴隷制

2010年08月18日 | 歴史

他の「新世界」植民地では、大西洋貿易によってフランス植民地のサトウキビ・プランテーションに労働力を供給していた。フランス領西インド諸島には、現在の呼び方で、アンギラ(短期間)、アンティグア・バーブーダ(短期間)、ドミニカ国、ドミニカ共和国、グレナダ、ハイチ、モントセラト(短期間)、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、シント・ユースタティウス島(短期間)、セントクリストファー・ネイビス(ネイビス島を除く)、トリニダード・トバゴ(トバゴ島のみ)、セント・クロイ島(短期間)、および現在のフランス海外県であるマルティニークとグアドループ(サン・マルタン島の北半分とサン・バルテルミー島を含む)が含まれていた。

奴隷貿易はルイ14世の黒人法 (Code Noir) によって規制されていた。奴隷制度は1791年のトゥーサン・ルーヴェルチュールによるサン=ドマングでのハイチ革命後に初めて廃止された。反乱軍は奴隷制度の廃止を要求し、1794年2月4日にジャコバン派の率いるフランス第一共和政 (1792 - 1804) はプリュヴィオーズ16日法を可決して奴隷制度の廃止を決議した。アンリ・グレゴワールと、ジャック・ピエール・ブリッソーが指導する「黒人の友の会」(Societe des Amis des Noirs) が奴隷制度廃止運動の一部を担い、フランス本土における反奴隷制度感情を作り上げる重要な基盤を築いた。法律の第一条はフランス植民地における「奴隷制度は廃止する」としていたが、第二条は奴隷の対価に応じて「奴隷所有者は補償される」とされていた。

しかし、ナポレオンは第一執政となった後に奴隷制度を復活させ、これを強いるために軍政府長官と軍隊を派遣した。1802年5月10日、グアドループでデルグレ大佐がナポレオンの代理人リシェパンス将軍に対して反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、奴隷制度が再構築された。この事件に関する情報がハイチに伝わり、ジャン=ジャック・デサリーヌらに1804年のハイチ独立につながる反乱を起こさせた(ハイチ革命)。1848年4月27日、第二共和制 (1848 - 1852) の下で、ヴィクトル・シュルシェールの緊急命令により、再び奴隷制度は廃止された。国はコロン(白人植民者、クレオール言語のベケ)から奴隷を買い上げ、解放した。

しかし、ほぼ同じ頃に、フランスはアルジェリアを皮切りにアフリカの植民地化を始め、奴隷に等しい労働条件で鉱山、樹木の伐採およびゴムのプランテーションに人を送り込んだ。

植民地政策の評価に関する議論が今日でも続いている。2001年5月10日、クリスチャーヌ・トービラの法では、奴隷制度と大西洋奴隷貿易を人道に対する罪だと公式に認めた。5月10日は幾つかの候補の中から奴隷制度の犯罪を認める日に選ばれた。反植民地主義活動家は、アフリカ開放の日(5月25日)も共和国に認められるよう要求している。この法によって奴隷制度の犯罪は認められたが、4年後の2005年2月23日、保守系の国民運動連合 (UMP) による教師と教科書に「特に北アフリカにおけるフランスの統治の積極的な役割を認め認識する」ことを求める法律の成立が、フランス国内でも海外でも大衆の騒乱と歴史修正主義に対する非難を呼んだ。アルジェリアの大統領アブデルアジズ・ブーテフリカは、この法の故に計画されていたフランスとの「友好条約」への署名を拒んだ。有名なマルティニークの作家でネグリチュード (Negritude) 運動の指導者のエメ・セゼールは、UMP指導者のニコラ・サルコジとの会談を拒否し、サルコジのマルティニーク訪問をキャンセルさせた。この議論を呼んだ法律は2006年の初めにジャック・シラクによって撤廃された。
 フランスの奴隷制廃止運動 ( Wikipedia )

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