お登勢は昨日の明け方近くに
木蔦屋をぬけだしていた。
これもお登勢なりにかんがえたことである。
夜中に戸閉まりを解き放つ無用心を思ったお登勢は
木蔦屋のまかない方であるおさんどんが
一番に
おきだしてくる明け方近くまでを待った。
勝手口の戸が開いていても
おさんどんが最初にそこに来る。
蜆売りや豆腐売りが
くどに顔をだせるように、
戸の鍵をはずすのが、
おさんどんの日課でもあるわけだから
おさんどんがいれば、
戸があいている。
逆を言えば戸が開いていても、
おさんどんがいれば無用心でない。
そろそろ、おさんどんがおきだしてくるまでの
ほんのわずかの違いをひきぎわに
お登勢は木蔦屋をぬけだし、
晋太あんちゃんの元へとひた走った。
晋太のすまいの前にたちつくすと、
それでも、
お登勢の胸に迷いが生まれる。
「あんちゃんの屋移りのことは
女将さんに、はなしそこねていたけど・・・。
いずれ、いや、登勢が出て行ったとわかった時点で
直ぐに染物屋に知らせが行って、
あんちゃんがいろいろ、尋ねられるだろう。
あんちゃんに・・・めいわくをかけてしまう。
どう・・しよう・・」
迷った手が戸口にかけられたまま、
戸を叩こうか
あんちゃんを呼んでみようか
それとも、
このまま、どこか・・・住み込み奉公ができるところを
さがしにいこうか・・・。
お登勢の思案がさまよっていた。
その時
『らちあかんぞ』
お登勢の胸の中に晋太の声が響いた気がした。
らちがあかない。
そんなことじゃ、どうしょうもない。
良くなることまでも
わるくしてしまうのは、
何も話さず、自分の中にとじこめてしまうせいだ。
喋れるようになったら、
今度は喋らないのか?
それじゃあ、いっそ、喋れないのと同じじゃないか。
晋太の言葉がお登勢を押し、やっと
小さな声でお登勢は晋太を呼んだ。
はたして、家の中から
晋太がおきだす気配がきこえ、
戸口の芯張り棒が外され
張り詰めた顔が泣き顔に変わるお登勢を
黙って見つめる晋太がいた。
お登勢の頭をくちゃりとなであげると、
「はよう、はいってこんか」
お登勢を呼び入れると
その目で、お登勢をさらえなおす。
泣いたのは、安心したからだ。
ひどい目にあって、泣いてるわけじゃない。
表情の違いでそれはわかる。
「寝てないんだろ?
俺はもうそろそろ、起きようと思ってた頃だから、
かわりに
お登勢は、一度、ゆっくり眠るといい」
布団がたった一つしかないのはあたりまえのことだが、
布団をそのままにしておくから
ゆっくり眠れという。
「あんちゃん・・・」
何があったか、きこうとしないで、
なにもかも、のみこんで、
お登勢の身体をいたわる晋太がありがたい。
「はりつめてるとな・・・
身体に毒だ。
帰って来たら、ゆっくり、きくから・・
今はねむるといい。
飯はあんちゃんがつくっといてやるから・・。
おきたら、しっかり、くうんだぞ」
ふすまを開けて三畳の寝間にお登勢をおしやると、
今のお登勢に一番必要なことだけをいいおいて、
晋太は土間におりたっていった。
「椀と箸だけは、そろえておいたから・・・」
流石に布団を一組、あつらえる余裕はなかったと
すまなさそうにつけたすと、
外の井戸に米を洗いにいくようだった。
布団の中にもぐりこみながら、お登勢が呟く。
「あんちゃん・・・ありがとう」
今更ながら・・・。
晋太の温情の深さを知る。
何か、有ったらあんちゃんとこにくるんだぞ。
言った言葉の直ぐ後ろで
登勢がいつ来てもいいように、
屋移りのために渡された給金から、
お登勢のための茶碗と箸を用意しておく。
どんなに遠く離れ、どんなに長く会わなくても
あんちゃんは、
言った言葉をたがえない。
お登勢のため。
いつでも、構えて、待っていてくれる。
お登勢の身代を
お登勢の幸いを
一番に考えてくれる。
そのあんちゃんを悲しまさせないためにも、
やはり、
木蔦屋を、早いうちに飛び出してよかったんだ。と
お登勢の苦しい胸のうちがほどけてゆく。
「あんちゃんは・・・
登勢の身代だけでなく、
登勢の思いも迷いも悲しみも
なんもかも・・・すくってくれる」
呟きがか細り・・
安堵が心に広がり
広がった安堵が
何も考えぬ眠りをいざなってくる。
「あんちゃん・・・ありがとう」
外に行った晋太を拝んだ声が
すぐに、静かな寝息に変わった。
お登勢のための食事を飯台の上におき、
晋太は戸口にたった。
戸の背の部分には臍が作られている。
芯張り棒をあてがい
外に出て、戸を閉めると臍にそって
芯張り棒が滑り落ちてゆく。
そして、戸を締め切ると
晋太が掘っておいた臍の下部分の溝に
晋張り棒がはまり込む。
これで、外から鍵を掛けられる。
通常、家の中の人間が
芯張り棒をかたむけるのであるが、
晋太はお登勢に棒を傾けさせないほうがいいと
考えていた。
お登勢が芯張り棒を傾けるために
戸口に立つ。
この姿を誰かに、いや、
木蔦屋のお登勢の不在を知るものに
見うけられたら・・・。
お登勢を付けねらう男の耳に
お登勢の所在が知れるかもしれない。
お登勢が此処に逃げてくることがあるのか、
ないのか、判らないが、
念のためにと、お登勢の話を聞いたその日、
店から帰って来た後
晋太は臍を切った。
その仕掛けが役に立つ。
お登勢一人きりに成る家の戸が
しっかりしまったのを確かめると
晋太は井筒屋に向かった。
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