頼まれた使いは単に仕上がった染物をとりにいくだけである。
今までもなんどか、こんな使いは、したが、
今までのお登勢は店先に入り、会釈をして、笑みをうかべることを忘れずに
番頭さんから、仕上がったものをうけとる。
これだけしか出来なかった。
だが、今日からは違う。
忙しそうに背を見せて働く染物屋の奉公人の丁稚の後ろを黙って通り過ぎることもない。
出掛けにお芳が
「晋太さんとはなしができるといいね。番頭にきいてごらんよ」
と、いってくれたことさえ、今までと違う。
暖簾を潜り抜けたお登勢を見つけると番頭は棚におさめた、頼まれ物に手をのばしかけた。
番頭のその手が止まった。
暖簾をくぐったお登勢がいま、確かに言葉を発していたと思ったからだ。
「おはようございます」
聞き違いか、暖簾をくぐったお登勢の後ろに木蔦屋の女将がいるのかもしれない。
番頭は思い直して、挨拶をかえしたが、
番頭の前に歩み寄ってくるのは、やはり、お登勢ひとりであり、
いつものごとくに柔らかな笑をうかべたお登勢である。
「おはようございます。出来上がった品物を取りにまいりました」
流暢な言葉が目の前にたった娘の口から漏れてきたのだと
判るまで、番頭はお登勢を呆然とみつめつづけていた。
「え?あれ?あ?ああああ。お登勢ちゃん、あんた、しゃべれるようになんなさったかい?」
お登勢は綺麗な娘である。
口がきけたなら、その声もどうだろう?
鈴を振るような声というのが美声の喩えにあるが、
その娘らしい可憐な声音が番頭の耳に届いたのである。
「いやああ、そりゃあ、よかった。よかった」
我がことのように喜ぶと、番頭は棚の品物を振り返った。
棚から引っ張り出した反物をお登勢に渡すその後ろで店先にいた丁稚が突っ立ったまま、
こっちをみているのは、
お登勢がしゃべるのをみて、驚き喜んだ番頭の気持ちとおなじだろう。
「女将さんがずいぶんよろこびなさったろう?」
お登勢を一番可愛がり目をかけているお芳であることは、
誰の目にも明白なことだった。
「はい。たいそう、よろこんでくださっています。・・・・それでも」
お登勢の言葉尻がかすかにくらくなった。
「おや?なにかあったのかい?」
しゃべれるようになればしゃべれるぶんだけ、
言葉の行き違いも生じてくる。
『急にしゃべれるようになったんでしょう?それが急にうまく、言葉なんかつかいこなせないでしょう?気になさらないことです』
番頭は些細な言葉使いの問題なのだろうと、お登勢を慰めるつもりだった。
だが、お登勢が言い出したことこそ、
出掛けにお芳にきいてごらんといわれたことだった。
「私がしゃべれるようになったことを伝えたい人がいるのですが・・・」
店の奥の染め場に続く渡り場をかすかにのぞくお登勢の目つきで、
番頭は伝えたい人がこの染物屋の働き手の誰かだと察しがついた。
奉公人の誰かがお登勢としりあいであるなどということは、奉公人の中から、聞いたことがない。
だが、奉公人が仕事を放り出して、店先に出てきてお登勢と話すという勝手は許されないことだから、お登勢と知り合いだということが、番頭の目に判りにくいことである。
まして、お登勢は口が利けなかった娘なのだから、ことさら、わざわざ、店先にでてきて、話をする必要もない。
と、なると
知り合いだということが判る余地がなかっただけなのか?
それとも、
知り合いというよりも、お登勢と思いを重ねている人間ということなのだろうか?
それならば、こっそり、店を抜けてあって話をすればいいだろう?
ここで、わざわざ、話をする必要はないだろう?
それとも、
しのびあうほどの仲でなく、お登勢がひそかに思いを寄せている相手ということか?
と、なると・・・知り合いともいうか。
この店でお登勢と知り合う人間と言えば、
店先と染め場を自由にゆききする、若?
お登勢が思いを寄せる相手が染物屋の長男徳治であるなら、話はわかりやすい。
たまに店先に出てきた徳治がお登勢に声をかけることもある。
その徳治にお登勢がほのかな、恋心をいだいたと・・・。
番頭は胸の中で勝手なあて推量をしおえると
「お登勢ちゃんがじかにつげたいんだね?だれだろうね?ちょいと、よんできてあげましょう」
推量とおり徳治の名前がお登勢の口からでてくるだろうと番頭はおもいこんでいた。
お登勢の思いが汲まれ、呼んで来てあげると番頭に伝えられると
お登勢の顔のくぐもりが取り払われた。
奉公人が店先で、あうことなぞよほどのことでない限りできることではない。
本来ならば番頭も断りを入れるはずであるが、
そこが、お得意さまである木蔦屋のお登勢のことであり、
お登勢の口が利けるようになったというめでた事である。
「さて?誰なんだろうね?」
肝心の呼びつける相手がわからないのでは話にならないのであるが、
徳治の名前が出てくると思っている番頭は
番頭の分をこえる行いであることなぞきにならない。
ところが、お登勢の口から出てきた名前が番頭の首をかしげさせた。
「あ・・あんちゃんを」
お登勢にとって晋太の呼び名は「あんちゃん」でしかない。
胸の中で、
音にならない喉の奥でお登勢が呼び続けた名前がそのまま、口をついてでた。
お登勢は首をかしげた番頭に「あんちゃん」でわかるはずもないのだと
気がつくと、あわてて、「晋太さんを」と、いいなおそうとした。
が、番頭が首をかしげたのはあんちゃんが誰にあたるのか、わからないということではなかった。
「お登勢ちゃんの?お兄さんがここにいるのかい?」
お登勢の知り合いが此処に居るということさえ初耳で、
これにもいささか、おどろかされた。
もちろん、お登勢の口から、そんなことをきくことなぞ今までは出来なかったのだからとうぜんではあるが、
番頭がいろいろとあて推量をした、その知り合いが兄だというのであるから、
ますます、おどろいた。
「お兄さん?こりゃ、驚いた」
奉公人もお調べがあるわけでもないのにいちいち、どこの誰と親子兄弟だと、名乗りをあげはしない。が、それでも、木蔦屋のお登勢である。この店によく顔をだしていたのだから、
染め場で働く奉公人だって、多少はお登勢を知っている。ならば、「あれが俺の妹だ」と、いいだしそうである。言い出せば仲間内から、番頭の耳にもうわさが入ってきそうである。
それとも、自分の耳にまで届いてないだけなのか?
お登勢が妹であることをだまっていたのは、お登勢の口がきけなかったせいも、
あるかもしれない。
妹の不遇を多くは語りたくなかったせいなのかもしれない。
「え?誰だろう?」
番頭の誤解を解くべきであろうが、お登勢は矢継ぎ早に尋ねられた番頭の問いに
晋太を兄だとおもってもらっているほうが、この先も話をしやすいし、
顔を見ることが出来なくても「兄はげんきですか?」と、たずねることも出来やすいと考え直した。
これが、ただの奉公人同士であれば、
「私事」となるが、兄妹なら、少し違う。
実際、お登勢にとって晋太はあんちゃん以外のなにものでもなく、
あの惨劇のあと、縁の下で震えるお登勢を引っ張り出してくれたときから
お登勢を支えつづけてくれたあんちゃんである。
姉川を遠く離れた都に住むことになったときも
あんちゃんが同じ町の空の下に居ることがどんなに心強かったことであろう。
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