憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

お登勢・・・1

2022-12-18 12:44:27 | お登勢

夜中にひいぃと切れ上がった女の声が聞こえた気がして
お芳は布団の上に起き上がった。
気のせいだったのだろうか?と、思うより先に
二つ向こうのお登勢の部屋あたりの襖が
やや、荒げに開け放たれ
廊下を忍び走る人の気配を感じた。
「え?」
お登勢に悪さをしようと、店の誰かが忍び込んだのかもしれない。
だが、お登勢は、八つの歳で此処に来たときから「おし」だったのだ。
と、なると、お芳がさっき目を覚まされた悲鳴はなんだったのだろう?
かすかな、疑問を感じながら
とにかく、お登勢の様子をみにいかなければ・・。
と、お芳は隣に寝ているはずの亭主の剛三朗をおこそうとした。
だが、
剛三郎は「寄り合いで遅くなる。お芳は先に寝ていなさい」
と、言ったとおり、まだ、帰ってきてはいなかった。
羽織を寝巻きの上にかぶると、お芳は手燭に火をつけ、
ゆっくりと、お登勢の部屋に歩んでいった。
お芳の胸の中は複雑である。
お登勢はおしである。
此処に来たそも、最初から
お登勢は口がきけなかった。
お登勢が口が利けなくなった訳をかんがえても、
お登勢の身の上におきたことが、
未遂である事をいのるのであるが、
なによりも、
お芳がわざわざ、お登勢の部屋を夫婦の寝間の横に
整えてやったことが
何の功も奏さない事に悄然としているのである。
お登勢は口が利けない分を其の目でおぎなおうとするのか、
随分気働きの出来る、利発な子供だった。
手先も器用なのをみてとると、
お芳は早いうちにお登勢に仕立物を教え込んだ。
思ったとおり、縫い物の腕は見る間に上達し
今ではこの呉服屋の大事な針子になっていた。
口がきけないのでは、
不便だろうとお芳は文字も教えた。
これも、飲み込みが早かった。
もちろん、お登勢にすれば自分の意志を伝える
唯一の手段であると、必死だったせいでしかないのだが。
気性は大人しい。
口が利けないことがお登勢に、
一歩引いて相手の様子を伺うくせをつけた。
ゆえに気働きにちょうじたのであるが、
お芳はお登勢の縫い物の腕も、
性分も聡さも、不幸な生い立ちもふくめて、
お登勢を可愛がっていた。
お登勢が年頃になると、
何よりも其の可憐な顔立ちに
お芳は不安をいだいた。
男衆をうたがうわけではないが、
口の利けないお登勢を
手籠めにすることなぞ、
簡単なことであろう。
そう考えたお芳はお登勢を自分の寝間にちかい、
二つ向こうの部屋にすまわせたのである。
それでも・・・。
なにかあったら、
お登勢は身寄りが無い。
ここで、赤子をうむしかなくなる。
店の中の醜態を隠せる事もなく、
風聞がひろがる。
これも、お芳が懸念したことである。
だが、お登勢の綺麗なこと。
手代の常吉が、お登勢に話しかけるとき
うっすらとほほをそめているのも、
丁稚の重吉が店先にでた、お登勢を
ちらりちらりと、
盗み見ているのも知っている。
そんな妙な態度をとるのは常吉や重吉ばかりではない。
こんなこともあったから、
お芳はいつか、お登勢の身の上に
なにかあるだろうと、思ってもいた。
お登勢が此処に来る事になった境遇を思うと
それは、
お登勢にとって、
地獄のような試練であろう。
できれば、
ごく普通に所帯をもってほしいと願うのは、
とうぜんのことであるが、
お登勢は口がきけない。
いくら、綺麗でも、
いくら、気立てがよくても、
いくら、縫い物ができても、
いくら、賢くても、
口の利けない娘を
嫁に出してやる相手を
探す事はお芳にはできなかった。
だから・・・。
くるべきことがきてしまったのであり、
無事であろうが、なかろうが、
それを確認しに行く事は
くるべき時を迎えるしかなくなった
お登勢が始まった事をしることでしかなくなり、
寝間の横にお登勢の部屋をしつらえたことなど、
なんのまじないにもならないことだというのである。
そっと、お登勢の部屋の前にたち、
お芳はお登勢に声をかけた。
「お登勢・・・なにかあったのかえ?
はいるよ」
いいしなに、お芳はふすまをあける。
ろうそくの火の中にお登勢がうかぶ。
布団の上にすわりこみ、前あわせをかきいだき、
お登勢はお芳をみつめあげた。
どうやら、
お登勢は無事のようである。
お登勢はふるえながら、
お芳が部屋に入ってくるのを待った。
「お登勢?だれかがきたんだね?」
お登勢の首がうなづかれると同時に
お登勢の口から
「おかみさ・・・ん」
言葉がもれだしていた。
「おやあ?あんた・・・?」
お登勢が部屋に忍び込んだ男に抗うためには、
なによりも、
ふたつむこうの部屋のお芳に
異変を知らせる以外手立てがなかったのである。
「くちがきけるようになってるじゃないか?」
今度はお登勢はこくりとうなづいた。
今までのように
文字で説明する必要もなくなったお登勢であるが、
十年近く言葉を発さなかった口は
流暢な言葉を忘れているようであった。
「もっけのさいわいってとこかねえ」
お芳はわらってみせたが、
其の心の底に
お登勢が声を発する事が出来るようになった、
恐怖と、
声が出なくなった恐怖が
同じようなものであった事を思うのである。
お登勢をここにつれてきた清次郎は本来女衒であったが、
女衒の清次郎が
お登勢を此処につれてこなければならなかったわけを
語った。
そのお登勢の境遇が、お登勢の声をうばったのだ。
お登勢の声をうばった恐怖が
ふたたび、
お登勢の声を取り戻させるとは、
清次郎も思ってもみなかったであろう。
お芳はお登勢の無事を尋ねなおすと
十年近く前の
清次郎の話を思いなおしていたのである。



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