静御前の「しずやしず・・・」と、いうのをメモ書き程度に書きのこしていたのを
掌編に収納している。
じつは、憂生は明治維新のころが好きで
司馬遼太郎の本を読み漁ったのであるが・・・。
平安とか江戸中期とか、このころのことには
ほとんど触手がうごかず
静御前がなんのことやら/おい!
さっぱり、わからないまま、
「しずやしずしずのおだまき・・」をぐぐって、
そこにかかれていた史実を参考に
視点をかえたものをメモ程度に書いた。
どういうわけか、このメモ書きに来訪者がおおくくる。
なにかしら、人気のある場面なのであろう。
憂生が源義経を子供のころに読んだ以後、
源義経にかかわることはいっさいなかったのであるが
落語・・
ん~~と
「青菜」かな。
隠し言葉というかな。
ちょっとうろおぼえなんで、間違ってるところもあるかもしれないが、大筋。
大家のところで刺身をたべさせてもらった植木屋(だったかな)が
食べたこともない食べ物だから、横においてあるわさびも口にほうりこんでしまう。
からくてもがいてる植木屋に
青菜をもってきてあげなさいと奥(さん)にいいつけるものの
奥さんが台所にはいっていくと、青菜は昨夜のうちにたべていて、ひとつもない。
主人に客のまえで「ありません」とつげるのは恥をかかせるようなものなので
隠し言葉で伝える。
そこで、源義経がでてくる。
「あの、だんなさま。さきほどのーなむくろうほうがんー」
菜を食らってしまってない。と告げる。
意味がわかった主人は
「義経(よし) 義経(よし)(わかった)」
と、答えその会話をきいていた植木屋はどういうことかたずねる。
大家(たいけ)はちがうものだと感心するだけだけでおわらず、
植木屋も自宅で大家ごとをまねしようと
友人をまねく。
女房にはちゃんとうちあわせもしてある。
「あ~~~植木屋さん、青菜はすきかね?」
「ばかやろう。植木屋はお前だろう。おりゃあ、大工だ」
「青菜はすきかね」
「でえっきれえだ」
と、なかなかとんとんと真似事がすすまない。
やっと、青菜をもってきてやりなさいという段にこぎつけたものの
女房が
「だんなさま、さきほどのなむくろうほうがんよしつね」
と、やったものだから、植木屋は返す言葉をみつけられず、
「弁慶~~~~」
まあ、これも、現代になると
弁慶の泣き所なんていういいかたがあるから、
窮地にたった(泣き所状態)植木屋とかさなって、
さらにわらえてしまう落語なのであるが
ここででてくる「なむくろうほうがんよしつね」
源義経は源九朗判官義経が確か本当の名だとおもう。
なむは南無。
南無阿弥陀仏の南無か、南無妙法連の南無かしったことじゃないが、
(これは、また詳しくはなせたら・・ということで、今回はしりゃない)
南無八万大菩薩などでも完頭詞として大活躍している。
まあ、尊敬語といっていいか。
頼みごとのときにとくに多いきがするが/笑
で、九朗というのだから、兄弟もおおかったのだろう/ちゃうか?
捕虜(名前でてこん)扱いで苦労したからという説もきくが/まさか
で、判官。
この意味はどうでもいい/よくないが。
判官とこう書いてもなんじゃそれと思われるだろう。
だが、憂生は次の言葉でフォー!!(ふるすぎるね)とびっくり納得。
判官贔屓
きくでしょ?
はんがんびいき。
日本人ははんがんびいき。と、いってもいい
弱くて立場的に不利なものを応援するというか・・。
相撲でいえば、舞の海とか、千代の富士とか。
体がちいさくてとても大きな体の相撲取りにかてそうにないのに、
勝っちゃう。もう、やんややんやの喝采で応援せずにおけない。
まあ、日本自体(国)ちいさくて不利なとこいっぱいあるのに
よくがんばってるから、いまや他国からときに判官贔屓をうけてるとこはあるとおもうが。
まあ、この程度しかしらないので、
メモ書きから物語にかきおこすことなど到底できない。
じゃ、しらべたらって、いわれるかな?
それがさ、
歴史、明治維新からほじくっていったら
いきなり、神話あたりにたどりついてしまってさ。
途中はワープトンネルさ。
だから、いま、ぬながわひめかいてるっしょ?
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