まあ、世の中には堅苦しくて
まじめで融通のきかない人間がいて、
そいつの事を
岩部金吉などとか、と、たとえるのであるが、
これから、少し
話しをしてゆく野原新之助という
男も
そのたとえに類する人物なのである。
いや、それにしては、
その男の名前・・・。
どこかの豪快な幼稚園児と同じではないか?と、
その話が
ただのかちんこちんの岩や金のはなしではないだろうと
何となく憶測されていられるであろうが、
まさにその通りである。
ああ。
ただし、ひとつだけ。
ご留意願いたい。
この野原新之助は
シンちゃんと呼称される
某幼稚園児とは何の因果関係はなく、
親戚、血筋なんて、めっそうもなく、
もちろん、
遠い先祖であるわけもなく、
単に
同じ名前であっただけで・・。
もちろん、そんな名前にした、作者に
何のたくらみもないことは
明白な事であり、
他にも出てくる聞いたことのあるような名前である
草薙剛之進も又、単なる作者のボキャブラリーの
貧困さの表れでしかないのも同様である。
その新之助が
いつものごとく
学問所から帰ってくると
きっちりと同じ時刻に
同じ歩幅で
剣術指南の師匠宅にでむいてゆくのである。
新之助が稽古にいく時間になると、
田畑を耕作する百姓は
もう、こんな時間かと
腰を伸ばし、
寺の鐘が今日は
少し早く鳴った。あるいは遅く鳴ったと
呟くのであるから、
いかにきっちりと毎日同じ行動を
していたか、わかるのである。
が、
その日、
新之助に晴天の霹靂としかいえない災いが
ふりかかってくるとは、
おもいもしない。
新之助が
百姓のかがむ田んぼの脇の小道を
通り過ぎたときのことである。
後ろから蹄の音を掻き消すような
どうま声。
「どけ、どけ、どけ、どかぬかああ! 早馬じゃああああ!」
あわてて田んぼの横の道祖神の脇に
身を寄せた新之助である。
飛んで行くかのように眼の前を馬が走り去り
やれやれとほっと胸を撫で下ろした新之助の
額から冷や汗がにじみでてくる。
道祖神の脇に退いたとき
腰に、がつんと嫌な衝撃を感じた新之助である。
その衝撃がなにゆえであるか、
新之助はたしかめたのである。
ゆえに血の気が引き
顔色はきっと
真っ青になっているだろう。
なにせ、自分では見えないので
新之助はそうであろうとおもうだけであるが、
そんなことより、
たい変な事になったのである。
新之助の額からは
冷たい汗が流れてくる。
「どうしよう・・」
思い浮かんだのは道場仲間の
草薙剛之進である。
とんでもない遊び人であるが世間の事に詳しい男である。
剛之進に相談してみよう。
新之助は
大変なことに嘆いている場合ではないと、
道場に走り出したのである。
大体において、幼馴染のつきあいというものは
性格が正反対だから、長続きするようである。
新之助にとって、
剛之進は自分にないものばかりもっていて、
一目おいているのである。
が、
かといって、極楽トンボのような
剛之進になりかわりたいかというと、
やおら、首を横に振る新之助であるが、
やはり、
いざとなったら頼りになる存在である。
頼りになるといえば、
新之助の妹である早苗嬢にも、
せんだって、相談を受けた剛之進である。
実は早苗嬢には、
恋仲の男がいるのであるが、
兄である新之助に色恋沙汰の
気配一つない事に
こまりはてていたのである。
父母に
実は好いた男がいると
うちあけようにも、この兄が
女性に興味一つ持つ様子がなくても、
一向に気にならない父母である。
むしろ、早苗が思い切って打ち明けようものなら
なんという、はしたない娘に育て上げたのだろうと
叱責されるだけのようにも思えるのである。
ならば、
兄の新之助が
世にいう「春」をむかえれば・・・。
わがこともうまく
かなうのではなかろうか?
なにせい、大事な嫡男である
新之助のやることなすこと、
すべてにおうような父母である。
まあ、やることなすことといっても、
学問所と道場への往復しかしらないのではないかという、
新之助である。
むしろ、
やらないこと、なさない事に鷹揚であるというべきかもしれないが。
兄が何をなしても、父母は諸手を揚げてうなづくであろうと思う早苗なのである。
(少しは美しい花に目を向けてくださってもよろしいのですのにね)
早苗の新之助への愚痴を聞かされた
剛之進は
早苗殿はさてはわしに気が有るなと誤解できる男なのである。
恋仲の男のことを言わなかった早苗も悪いが、
兄が恋の一つもしてくれれば私も
貴方に目をむけてもらっても、父母に許してもらいやすいのに。
と、受止められる剛之進の深読みを悪いというのは忍びない。
愛嬌とも、いい勘だけは持っているともいってやりたくなる。
「まあ、私にまかせておいてください」
と、気分良く早苗嬢に見栄を切った剛之進である。
そんなことがあったばかりの剛之進の所に
新之助が
血相をかえて、やってきたのである。
事情を説明するまでもなく、
新之助の顔色で何かあったと判るのが
幼馴染のいい所である。
道場の板の間の真ん中で
まずは正座をして心を沈め、其ののち
床の間の掛け軸に
礼をするのが稽古前の本来のならわしではある。
「女子のくどき方」
等を夢想しながら座っていたことを邪魔されたと
新之助をなじっている場合ではなさそうだと、
剛之進は新之助を見つめる。
「どうした」
困惑している所に心配気に声をかけられると、
本来伝えることが上手く出てこなくなるのは、
常日頃に突発事象に遭遇する事のない
男の悲しさである。
「早馬がきてな・・」
何も律儀に大変な事がおきたそもはじめのきっかけから、
はなさなくてもよさそうなものであるが、
そんな男のいう事を半分も聞かないうちに
それなりに理解しようとする
剛之進も友情に厚い男である。
「ふむ・・・」
馬が怖かったか・・・。
「乗る馬はいいが、走る馬はこわいものよ」
と、相槌を打つ剛之進である。
「道祖神があろう?」
新之助の話ぶりも要領が悪い。
「あったかのお?」
村の娘のほくろの位置なら、おぼえているが・・。
道祖神のお?
ああ・・・。太六の田んぼの横だな。
「うん。あるの」
「そこで、早馬をやりすごした」
「そうか・・・」
早馬ごときにはんべそをかきやがって。
意外と肝っ玉の小さい男だったのだなと
なにかしらぬが、優越感がわいてくるものだから、
剛之進はやけに優しくならざるをえない。
「其のときだった・・道祖神にこれが、あたってしまってな」
おや?馬が怖いではなかったのかと
剛之進は新之助が差し出した物をみつめた。
差し出されたものは
新之助がいつも腰にさしている刀である。
「父上が備前長船がよかろうと、わざわざ、あつらえてくれたのだ」
ぐいと差し出された刀の切っ先がわずかに鞘から
飛び出している。
「おい、危ないじゃないか・・」
いやいや、そういう事を言ってるんじゃない。
「どうしよう・・・」
鞘の先がポロリとおちているのである。
「備前長船でなかったのだろうのう」
刀の真偽の詮議をしようというのでもないのである。
刀は武士の魂。
鞘であるといえど、武士の魂を容れる鞘を壊してしまうという事は
武士の魂をかろきに扱かったという事になるのである。
「こんなことが父上の知る所になったら・・・」
なるほど。
やっと、剛之進は新之助の血相のわけを理解したのである。
「わかった。いい案がある」
刀の鞘はなんとかなるとふんだ剛之進の頭の中に
わいてきたのは、早苗の相談事である。
一隅の機会を余すことなく活用する事を
おもいつく人間は
参謀などにむいているのであろう。
この場合の剛之進の参謀ぶりは、
早苗嬢への下心の帰巣するのであるから、
実際の軍略に役に立つ人材であるかどうかはいささか怪しい気がする。
怪しい気がするが、短いときの中で
剛之進は
早苗の相談を解決する糸口をシッカリとつかんでしまうのである。
ただし、
剛之進の新之助への把握はかなり粗野なのである。
『ようは、新之助が女子に興味をもつようになればいいのだな』
確かにそうであるが、
余りにも大雑把なめどうの認識である。
が、
鞘が壊れたことを、上手く利用して
新之助を・・・・。
おい!
剛之進?
お前、何をたくらんでいるんだあああ?
「うむ。案ずることはない」
と、剛之進。
刀の鞘をどうすればいいかの案だけではない。
早苗嬢からの相談の解決も
剛之進の描いた策で上手く行くだろうという
意味合いでもある。
「どうすれば・・・」
新之助の不安な声に
剛之進はあっさりと言い放った。
「かわりの鞘を求むれば良い」
「え?」
同じものがあるのだろうか?
新之助の不安をみぬくと、
剛之進は
「まず、よく似たものを買い求め、
其の間に、本物は治しにだそう」
「なるほど」
成る程とうなづいた新之助であるが、
「それでも、どこにいけば、てにはいるのであろうか?」
どこに行けばいいかもわからなければ、
その「どこ」にどうやっていけばいいかもわからない。
なにせ、学問所と道場と家との往復しかした事のない男である。
「な~に。心配するな。わしが地図をかいてやるわい」
ふん、ふん、とうなづきながら、
胸を撫で下ろす新之助を尻目に
早速剛之進は懐中の和紙をひきずりだし、
床の間の通い帳の脇の筆をとりにいくと、
さらさらと地図をかき、新之助にわたした。
「いいか、ここ。この場所には店がいっぱいならんでおるが、
奥まで行かずに大門をくぐった最初の店にとびこめばいい」
時代物をお好きな方であれば
大門があって、店が一杯並んでいるという
場所がじつは、どこであるか、
察しがついていらっしゃるであろう。
が、
岩部である。
金吉である。
剛之進に教えられた場所が
吉原なる遊郭であると、わかるはずもない新之助である。
「ところで、銭をもっているのか?」
どこまでも気配りの深い男である。
「あ・・」
新之助に手持ちの銭などあるわけがない。
道場と学問所をよりみちひとつせず、
往復する新之助に、金など必要がないのである。
「やはり・・ないか」
剛之進は仕方がないと
又、懐に手を突っ込んで
財布をひっぱりだしてくると、
「わしが用立てしておいてやる」
と、新之助に財布ごと渡してやるのである。
「あ、ああ・・。すまない。遠慮なく借用させてもらう。必ず返すからな」
「あたりまえだ」
と、うなづいてみせるが、
吉原に繰り出す予定がお釈迦になった剛之進である。
そのかわりにといっては、なんであるが・・・。
早苗嬢の白い項を目にうかべ、
「お前の役にたつなら、活金になろう」
と、粋なせりふを吐き出すのである。
剛之進のおまえというのは、
無論、新之助のことではない。
あわよくば・・・。早苗嬢と・・・。
不埒な考えについつい、袴の中で鎌首をもたげる
「おまえ」のことなのであるが・・・。
そんなこととは、知らず、
感涙というものが
こんなにも簡単に出来る事なのかと
剛之進をたじろがせている
新之助にはただただ、
感謝の言葉しか出てこないのである。
「かたじけない。それでは・・・貴殿の厚意にこたうべく、
いっときもはやく、鞘をてにいれてくる」
後も見ずに飛び出した新之助である。
せめて、
もう一度振り返って剛之進を見ていれば、
狐みたいな顔になって
ほくそえんでいる剛之進に疑念をいだけたことであろうに・・・。
だましうちであっても、
大人になれそうな
新之助をよろこんでやるべきなのか、
複雑な気分をだかえながら、
新之助の後を
おってみることにしようか・・・。
やれやれ・・・。
剛之進に渡された地図と
にらめっこをしながら、
新之助は剛之進のいう「ここの店」にやってきた。
剛乃進が「ここ」を指定したのは、ここがなじみの店で、
よく内情を知っているからというわけではない。
下手に吉原の奥まですすまれては
どうも、おかしい
と、新之助に危ぶまれてはいけないと思ったからである。
剛之進の采配が功を奏し、
客引きの男衆に声を掛けられることもなく、
何の疑問もいだく暇もなく
新之助は「ここの店」に滑り込んで行ったのである。
時間も早いせいもあり、店の外で客をひく男衆もまだ、まばらであったが、
店の中にはいっても、女郎は夜の稼ぎ時にむけて、
化粧・身支度に余念なく、顔見世の店先に出ているものがいなかった。
これが、ますます、新之助に露ほどにも疑いをもたせる隙をなくさせたのである。
帳場に座っている女将が新之助を見つけ
腰を上げるのをみると、
新之助はーここは、女が、主人なのか?ー
と、思いながら、女将の傍に歩み寄っていった。
刀に関するものを扱う店であれば、
当然男が主人であると思っていたからである。
だが、あるいは、
主人があいにく留守で、奥が代わりに店番をしていたのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
と、頭を下げる女将である所をみると、
女子であっても、充分に刀の目利きは出来るようである。
新之助はさであるならばと、安心して用件を切り出したのである。
「鞘が欲しいのじゃが」
女将は新之助が入ってきたところから既に
新之助の値踏みをしているのである。
年は20くらい。
着物を見れば、いい所の若様。
顔つきからはまじめそうな人柄が見える。
この店では初顔であるが、
青年にとってもこんな場所は初めてと思えた。
だが・・・。
『鞘が欲しい・・・だって?』
凝った言い様である。
確かに御腰の宝刀を収める物は
「鞘」ではある。
言い得て妙ではある。
あるが、
青年の顔をみると、
粋な物言いとは似合わぬ初心さがみえる。
が、しかし、
こういう世界を外見で判断できる事ではないのも、
熟知している女将である。
子供のような顔をしていながら、
実は手管も兼ね備えた「通」もいる。
はたして、この青年はどっちであるのか?
まあ、そんなことは相方がしるところであろう。
と、商売人らしく考えなおすと
女将は「通」は「通」らしく接待せねばと
たずね返した。
「で、鞘は、雄鞘?雌鞘?どちらがよろしゅうございます?」
実はこの店は
女郎を扱うだけでなく、
陰間・・・つまり、
男色も扱っているのである。
吉原の入り口一番最初に店をかまえるのは、
老舗?であった証拠である。
当然商いも長い。
長い商いの中、女遊びだけでは
興が乗らぬという酔狂な人間も出てくる。
そんな顧客のために、
女将は「男」も商いの要として
そなえていたのである。
が、むろん、これは、常連のため。
通・・・。と、いっていいか、わからぬが
通人のためのものであった。
だから、
こういう陰間を好む人間は
女将の判断によれば、
遊びに精通しきった成れの果てである。
で、あるから、
男がいいか、
女がいいか。
そうたずねれば青年の「通人」の度合いが
判ると踏んだのである。
むろん、
こんなことは剛之進のあずかり知らぬ所で、
とんでもない事態に発展してゆくかもしれないなどと、
剛之進は思ってもいないのである。
とは、いうものの、それも新之助の
返事如何なのであるが・・・。
その新之助である。
『雌鞘?雄鞘?鞘に雌雄があったのか?ふううむ』
わずかな間に新之助は思いをめぐらす。
『雌鞘・・。これは、最近赤鞘組などと称し
赤い鞘をさすものがいるときいたが、
雌鞘というのは、このことであろうの』
備前長船は漆黒の鞘である。
黒は雄鞘であろうと、かんがえるまでもない。
『わしは、男じゃ。何がかなしゅうて、雌鞘などささねばならぬ』
馬鹿にするなとばかりに
女将をきつく、みすえると、
「きまっておろう。雄鞘じゃわい」
この新之助の真剣な顔を
女将は別の意志にとりちがえるのである。
『よほど・・・。男がお好きとみえる』
真顔で男がいいといいきるのである。
着物も見れば見るほど上物。
裕福な家の嫡男であろう。
この客を逃してなるものかと
店一番の売れっ子陰間。菊哉を
この男にあてがおう。
菊哉は性技にたけて、客の心をつかんでいるだけでなく、
一見の容姿も麗しい男である。
「わかりました。それでは、お二階にご案内しましょう」
「二階?」
わざわざ、そんな所まで行かねばならぬかとおもうのであるが、
「上物の鞘でございます」
と、いわれれば、それゆえにこっちまで丁重に扱われるのかと
新之助はひとり合点をしてしまったのである。
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