「わかった。瞳子との結婚云々は早決すぎるし、白紙でなく、保留として、考えることにしてくれまいか?
君もまだまだ、情に流されてると思うし、ゆっくり、考え直す時間を持ってほしいと思う。
そして、君の言い分も確かに一理ある。瞳子が君に、ほかの男性にどんな態度をとるか、君の言うとおりか、そうじゃないのかも確かにわからない。
そして、君がそこまで、瞳子を思ってくれるのなら、君の言う通り、瞳子にあって、確かめてみるしかない。
瞳子がどんな態度をみせようとも、君は情に流されず、白紙に戻したほうがよいか、それを、考えてくれ」
私はやっと、ひとつの障害をとりのぞけた安堵感を手にした。けれど、本当の障害の排除はこれから、はじまっていくのだ。
教授は机の電話をとると、夫人に電話をいれはじめた。
「ああ。話した。もう、これ以上・・う、うん。今日・・一緒に・・ああ、それは・・君の思ったとおり・・なにもかも、ありのままの瞳子を見てもらうしか・・うん・・わかった」
言葉すくない電話が切られると、教授は私に向き直った。
「家内はね・・。できるなら、君と瞳子が一緒になってほしいとも、思っていたんだ。
だけど、瞳子の姿をみて、君が瞳子に失望する姿もみたくない。
だから、宮城に行ったことにして、その間に瞳子が正常をとりもどしてくれないかと、画策したんだ。
その間、瞳子がみせる態度に、家内は、純真な瞳子しかしらない君のままでいてほしいと思い始めたんだ。
瞳子にとってもね、きれいな瞳子しかしられず、おわったほうが、瞳子にも幸せだろうって、かわりはてた瞳子を君の目にさらしたくない。
そう思ってたんだ。もちろん、こんなことをいったからって、君が婚約を撤回することになんの遠慮もいらない。
ただ、君の言うとおり納得できない状態で白紙をうけいれろというほうが無理なことだから、だから・・」
あくまでも、教授は「別れ」というゴールにむかうための、手順をふもうとする。
それは、瞳子の姿を見て、私が「やはり、やめます」と、はっきり決断をくだすことへの教授の覚悟と自分へのいいきかせ。
私の態度にもしかすると、と、いう甘い期待を抱いて、それが、なにもかも崩れ去れば、教授は奈落におちる。
崖からはいあがりかけたと思ったとたんに底までおちるのは、這い上がれるかもしれないと思った分だけ、絶望を味わう。
そんなふうに教授の自己防御ともとれるし、私の想像だにできないが、想像以上に瞳子の状況は悲惨なものがあるのかもしれない。
どちらともわからないことを詮議しているのは、空がおちてこないかと起こってもないことを憂う、杞憂にすぎない。
まず、私は私の想定で瞳子を確かめなおさなければならないし、
じっさい、教授と同じように、私の存在を認識するか、しないか、それさえ、あって見なければわからないことだった。
夕方の門灯が柔らかな胴色を路地まで投げかけている。それが、教授の家。
玄関のチャイムを押して、帰宅をしらせると、扉一枚むこうに人の気配がたつ。
扉をあけたのは、瞳子だった。
教授が黒い革靴を脱ぐ間、じっと、教授をみつめ、あとから、玄関に入った私の存在にきずかないようだった。
教授が玄関に足をかけたとたんに瞳子は教授の腕に絡み付いていく。
その姿は幼い子供が父親の帰りに狂喜するようにも、新婚夫婦の甘い馴れ合いにも見える。
「瞳子・・お客様だよ・・」
瞳子と呼ばれて、瞳子はしばらく、宙をむいた。
「私のことだったかしら・・?」
瞳子が認識できないものは父親だけでなく、自分自身でもあった。
「そうだよ。君の名前は瞳子だよ」
教授がみせる背中はその会話を聞いている私を強く意識していた。
「おじさま・・ごめんなさいね・・もう、何度もおしえていただいた気がするのに・・」
ああ、これかと私は思った。おじさまと呼びながら、瞳子は教授に絡み付いていく。
まだしも、お父様とよばれて絡みつかれるなら、私が言うように、父親を認識した上での愛情表現の異常と思えただろう。
だが、どこのだれかもわからない「おじさま」という認識で瞳子がからみついてくる。
人前でも、いっこうにきにならないで、教授に絡みつく瞳子の行動は、教授の言う「誘う」というほどのものではないが、
おそらく、この調子では夫人、瞳子の母親の前でも平気でこうなのだろうし、
教授がいう「誘う」がどういう態度なのか、わからないが、
教授もいいきかせてはいるのだろうが、あまりに拒絶すると、瞳子が狂喜の中に閉じこもってしまうきがして、
なんとか、かわしていると見えたが、それにも疲れ果ててしまっている。
いつまで、こんな状態をつづけなきゃいけないのか、教授の疲労が暴走の引き金を引きかねない。
もう、いっそ、瞳子ののぞむように・・・教授のかげりが教授まで狂喜にひずみかけているように見えた。
「瞳子・・です・・」
私を向き直った瞳子を今度は教授がじっと見つめていた。
私にも、すくなくとも、「男」への恐怖を感じている瞳子にはみえなかった。
それから、瞳子は長い間、私を見つめていた。
「どこかで、お会いしたことがあるような気がします」
瞳子の言葉を聴きながら、私はやはり瞳子の底に「私への思い」が間違いなく在ると思った。
だが、その「私への思い」を瞳子自身が認識していなかった。
私を認識できないぐらいだから、当然、「私への思い」も、瞳子が自覚できるはずもないのだが、私のかすかな喜びも瞳子の狂いにかき消されてしまうことになる。
「おじさま・・この方・・私のお兄様・・ううん・・弟かしら?」
どうみても、私の年齢が瞳子より下のわけがない。
外界や対人への認識ができないということは、外見上で相手を判断しているということではない。
瞳子はやはり、自分の内部感情で相手を判断している。私に対して、なにか、親しい、兄弟のような親近感を覚える。
なにもかもが、瞳子の心象風景にすぎないのだ。
「初子」
教授が夫人を呼ぶと瞳子も一緒に夫人を呼び始めた。
「お母さま・・おじさまが・・えっと・・・」
しばらく考えたのは私のことだろう。兄弟かもしれないと思いながらその名前を思い出せない自分に矛盾ひとつ感じる様子もなかった。
だが、瞳子は夫人・・母親をお母様と呼んでいた。
これもおそらく瞳子の中では-お母様のような人-という認識がお母様と呼称させるに違いない。
案の定・・・。
「お母様・えっと・・お客様が来ていらっしゃるの。お母様・・ ・・・違うわ・・お姉さま・・伯母様・・・ああ・・」
軽く額に手を当てるとめまいを抑えるためか、瞳子はじっと立ち尽くした。
廊下のむこうから現れた夫人の表情はこわばり、私にかける言葉が見つからないまま、あふれそうになる涙を必死に抑えていた。
「初子」
呼ばれた婦人は何度もうんうんとうなづくと、私に手招きで中に入るように促した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます