憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

―沼の神 ― 6 白蛇抄第11話

2022-09-02 11:15:36 | ―沼の神 ―  白蛇抄第11話

この時澄明の胸に妖孤の一言が韻授となって、
えぐりこまれたと知るのはあとのことになる。

帰ってきた澄明の顔色の冴えぬを気づかぬふりで正眼はたずねた。
鴛撹寺の和尚が澄明を尋ねて来たのはもうひと刻もまえになる。
澄明の見廻りの場所を和尚に教えれば、案の定澄明の帰りが遅い。
鴛撹寺の和尚の用件に梃子摺っているのかと思えば、
わざわざ澄明を名指してきた和尚の用件も気になってくる。
ましてや、澄明が沈鬱な顔であればいっそう気にかかる。
「なんであった?」
和尚の件を尋ねられたと判っているのに
澄明の口を付いたは妖狐の事だった。
「妖狐があらわれました」
わざに狐如きが現われたと報告するわけがない。
と、なるとその狐は天変地異の前に空を舞うという白狐か?
はたまた、幻惑を操り人心を惑わすを楽しむ齢経たお咲狐か?
「九尾です」
澄明が重ねた言葉を聴く正眼にいくばくかの安堵がわいた。
九尾狐なら被害は魅入られた男にしか及ばない。
だが、唐の国の昔、殷の地に生まれ、
さらに転生を繰り返し遠い異国にも生まれ、
八度の転生の後ははたりと姿を見せなくなったと聞く。
禍なすものと恐れる必要はないが、
流石の正眼も己の生の世に
噂に聞く九尾の実在を知るとは思っていなかった。
いなかった分物珍しさがつい先に立つ。
「なんと?ほおお・・して、
妖狐は鴛撹寺の和尚をねらっているということか?」
いささか腑に落ちない。腑
に落ちないどころか笑いが嚥下してくる。
そうであろう。妖狐九度の恋の相手が鴛撹寺の和尚?
もたりと肥え気味で、頭のめぐりもいかにも鈍気で、
とても妖狐の恣意に叶う風采ではない。
ましてやおよそ色恋の似合う純な歳でもない。
「いえ」
正眼の早とちりは澄明の説明不足のせいである。
が、
「だろうの」
と、頷いて見せたもの
「さては修行の坊主のうちか?」
鴛撹寺の和尚の足下の若者の身に起きた事かとあやぶむ。
「いえ、いえ」
くすりとわらいをおさえ、澄明は事の次第をはなしはじめた。
楠の行状の顛末に久世観音が現れた事を話しが及ぶと、正眼も
「そうか」
逃れられぬ裁断を下された楠への思いが澄明を暗くしているとわかった。
「それで、鴛撹寺の和尚はどうすると?」
元々成らぬ恋のはてである。
せめても二人の恋の証に子をえさせたのは、
むしろ久世観音の情状であろう。
その久世観音の決済に従うという和尚の決意を聞くと
小さな溜息を付いた。
「だが、命かける覚悟であらば、なおのこと名残おしかろう」
「たぶん」
和尚に教えたとおり楠はきりたおされることであろう。
だが、切り倒された楠の心には岩のような根がはっている。
其の根は夫子恋しさの不動をみせよう。
「また。くるか」
鴛撹寺の和尚がである。
困り果てた和尚は又も澄明をたよってこよう。
「つらいの」
楠も父子もつらかろう。
それが、澄明に一等応える事だろう。
それが、又、正眼に応える。
「父上」
「これもなにかの因縁。通るしかあるまい。
お前がように楠の痛み、みさだめてやるしかあるまい」
「は・・い」
話は妖狐の事に戻った。
「どうしたわけか、妖狐は楠を救ってやれぬかといいだしたのです」
「なるほど」
なんの危ぶみも見せず得心する正眼を澄明は不思議な目でみた。
「どうした?」
「いえ。父上には妖狐がわざわざ姿を現してまで
どうにも出来ぬ事を言い募りに来た心根がわかるのかと」
「ああ」
簡単に言えば同病相憐れむであろう。
別離を覚悟で結びつかずにおけなかった女の恋情は
妖狐には己をみるより辛かろう。
が、是は妖狐のこと。
澄明にすれば、正体を見破られると判っていながら
それでも澄明に云わずにおけなかった妖狐の行動は
浅はかにも見えようし、
凡そ自分と自分の男以外の事に
心動かさぬ生き様の妖狐らしからぬとみえよう。
「わからぬか・・」
正眼の口から漏れた音は澄明のこの先を考えさせていた。
常の女の生き様でいえば
平凡に愛し愛される相手に巡り合うが、女のさいわいであろう。
だが、澄明の先は女子が男を追う気持ちを持つ事もなく
白峰大神の寵愛を受けねばならない。
結ばれずにおけない男女の恋情の激しさも
女の情焔も知ることなく白峰の事はただ、陵辱にすぎない。
正眼はふと亡き妻を思う。
身体の弱い妻だった。
男と女の睦事は命をちじめるだけと云われた。
だが、呼世は正眼の男の思いを受け止めたいといった。
それが、呼世が正眼に渡せる、正眼の女となる唯一の証しだった。
命を懸けて正眼の全てを受け止めた呼世なら、妖狐の思いが判るだろう。
判る。それは女として、さいわいであることの証し立てに思えた。
呼世はたしかに短い一生を終えたが、確かに幸せであったのだと思う。だが、呼世の残したこの澄明はさいわいを知る前に、
白峰大神に己を差し出すしかない運命である。
だから、妖狐の振舞いの根がわからない。
邪気なく思わず呟いた正眼の言葉が
享受しなければならぬ澄明の定めを
さらに深く澄明自身にみせつけてしまっていた。
軽く蒼褪めた顔が必死に唇を噛んでいる。
『男を思うて、命を懸けるを救うてやれ?
救われたいこそはこの澄明だ。
などか、などか、白峰などにくじられねばならぬ』
叫びたい心を押さえつけねば、
いってはならぬ正眼への責めがもたげてきそうである。
『父上が迂闊に物を言うたが、元ではないか?』
正眼の苦渋は重に承知している。
承知しておればこそ、正眼の前でもけして、弱音をはかなかった。
「そういえば」
これ以上、どうにもならぬ己のくぼみを見詰めていてはいけない。
澄明は話を変えることで己の思いをきりはなした。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿