直垂の端が水にしみてゆく。
澄明はふいと上をみた。
足元は沼の水が湧き出るほとり。
なのに、なぜか澄明は上を見た。
十七の春だった。
沼と呼ぶにはあまりにも清浄であった。
が、ここはやはり湿地帯の中で滞った水が作った沼でしかなかった。
沼の上まで枝を広げた桂の木の枝が澄明の目の前にあった。
枝の上に絡みつくようにして、
得体の知れない生き物が澄明を見据え手招きしていた。
「お、おまえ?なにものだ?」
妙な怖気も怨気も悪気もかんじない。
おかしな感情を持っていないことだけは確かだった。
だが、澄明はこんな生き物をいまだかって見た事がない。
陰陽師であるというのに、だ。
異形の者に驚く事もなくなった。
魂が表す姿は時に異形を通り越す。
例えば餓鬼もそうだろう。
だが、目の前の生き物は澄明の知る、どの存在にも値しなかった。
「よう。気がふれぬの」
そやつが澄明に掛けた最初の言葉だった。
「なにを?」
こやつは澄明の何をよんでいるという?
澄明のまどいを横に置くかのように
さらに続けられた言葉が
澄明の息をのませた。
「白峰大神との縁を結ぶはみいの年になろうの」
やはり、こやつは澄明の運命を読みすかしていた。
「・・・・・・」
と、いう事は男造りの姿をこしらえているが、
澄明が女である事も悟っているという事である。
「その運命を知りて。よう気がふれぬの」
もう一度確かに澄明の定めを知っておるとにおわせると
枝の上からぽちゃりと音を立てて沼の上にたってみせた。
沼に沈まぬ姿はそ奴に実体がないことを澄明に教えた。
「お・・おまえ?なにもの?」
やっと、言葉を吐き出した澄明であるが、
浅はかな人間の知識では目の前の存在の
正体さえわからぬを露呈するに過ぎない。
「さあてのお」
にやりと笑うと澄明をみすえる。
「お前には、わしが、どう、みえているか?」
不可思議な問いかけである。
見るものによってその姿が違うといっているようにきこえる。
そんなことがあるのだろうか?
澄明が考えているうちにそ奴は喋り始めた。
「お前は因縁を通る・・・因縁は通るしかない」
不思議な生き物の言葉は今の澄明には痛すぎる。
「因縁は更なる因縁を産む。
お前は其の流れに飲み込まれたまま生き続けたいか?」
「変転できるというのか?」
そ奴の言葉の奥の意味は澄明の耳をかたむかせるに充分だった。
「因縁は通るしかない。ただ、通りこすことで更なる因縁は納所できる」
「通り越す?」
不可思議な観念を提示された澄明は首をかしげた。
「どうやって?」
「ままよ。因縁のままに通る。
形は同じだが、通り越すと通るの違いは、思い如何による」
「?思い?」
「そうよ」
「して、いかなる思いをもてばよいという?」
生き物は少しばかりにやりと笑ったように見えた。
「お前次第。わしの姿が得たいの知れぬ者に見える内は
変転もできはすまい」
「・・・・」
生き物がどう見えているかさえ見抜かれている事に
澄明はいささか悄然とした。
得たいの知れぬこの生き物は間違いなく
澄明の領域より上にいることだけは確かだった。
「どうするかの?」
得体の知れぬ生き物の真意さえつかめぬ澄明は返事に窮した。
「考えさせてくれぬか?」
くすりと笑うは生き物の常であろうか?
澄明がみ取った笑いは、はたまた澄明の姿の反映でしかないのか?
「好きにするがよい。
どちらにせよ、白峰はお前をくじる。
この事実はかわりはしない」
ひょいと身を翻すと得体の知れぬ生き物は
一瞬、澄明の目の中で老人の姿に身を変えた。
「賢人の具象か?」
知恵多き老爺の如きなら、知る術も多かろう
と、いう澄明の思念が作った生き物の姿の変身を
そう読み取ると
生き物いや、老人は立ち去った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます