The 理科ロマンスカー

人生を振り返りつつ見過ごしては禍根を残すであろう事柄に着目。
日本の正義・倫理・規範・疑惑等々婉曲的に発信。

読解力に想う・・・まずは考えを持たせること

2019-12-15 15:05:28 | 日記
PISAの結果が発表され、読解力が前回の8位より15位となり、マスコミでは賑やかに報道された。日本のマスコミは順位が下がると大げさに取り上げる傾向がある(順位があがった際の扱いは小さい)。前回より12点低い504点で、OECD平均487点よりは遥かに上で、8位も15位も上位集団に位置していることには変わりない。だから国語教育の改善の余地はないかというと、話は別である。

 更に付け加えると、昨年「AI VS 教科書が読めない子どもたち」の書名で新井紀子教授の著書が出版され、エビデンスに基づいた読解力不足を指摘していた。「読解力=読み取る力」は全ての教科の基礎になる極めて重要な能力である。

 「読書百遍 義自ら通ず」。昔から言われていることである。この意味を再認識し、国語授業改善の基盤に置きたい。
読解力不足は読書量不足ともいわれている。だが、就学前の文字に接した度合いや文字に対する好き嫌いなどの子ども自身の得手不得手の資質や家庭環境状況や生活体験の量は大いに影響されることと推測できる。

 それでは学校教育ではどのようにしたら良いか。就学後の小学校国語授業は、まずは声を出して教科書を読ませたい。音読である。声を出すことで①文字を飛ばして読むことを防ぎ、ひらがなや漢字などを正しく読むようになる ②口を大きく動かし声を出すことによって言葉が耳から入り脳を刺激し、文字や話の流れをイメージできることになる、などの効果が期待できる。それだけではなく、「小学校教育は全身を使っての学び」が理解を助けると言われている。音読によって、身体を使った全身の学びになる。もちろん口を動かすことも脳への刺激になり、学びの定着につながる。

 言葉のイメージを広げるためには、できる限り具体物を眼の前に用意して、そのものと言葉という記号の一致を認識させることになる。

 今の子どもたちは音読を億劫がったり、面倒がったり、嫌いがったりして教科書を声に出して読みたがらない傾向が強い。大学生を教えていてもそのことを強く感じている。当然小学校時の音読量の絶対値が文章の読み取りの正誤に左右している原因の一つであると大学生と接して見当がつき、納得できる。

 授業における音読の場は、手を替え品を替えて実施したい。そうしないと飽きてくる子どもが現れ、それらの子は遊び出し読まなくなってしまう。まずは、自席で座って起立して。友だち同士向かい合って。教室の黒板側と後ろ側で向かい合って。さらに、体育館で、昇降口で、校庭で、多目的室で等々読む場所を工夫する。場所を変えることで気分も変わり、変化を持たせることになる。音読させることは、高校生でも大学生でも理解を助けることになり重要な指導の一つになる。

 音読後は、思ったこと、気付いたこと、感じたことをノートに書かせ、それを全体に発表させることである。どんな発表内容も「うんうん。そうそう。なるほど。そうかー」などの認めの言葉を全ての発言に返すことが肝になる。(ふざけた内容以外は本人の記述や発言を認めること。まずは本人の考えを尊重することが、その子の思考の原点・出発になる)。

 聞く(認知)、読む(読解)、書く(思考)、話す(プレゼン)、話し合い(理解・認識)を一体とする指導が当然になる。その指導内容として、発達段階や教室の実態や学年に応じた身につける重点等を計画的に設定(カリキュラム作り)して実践することを心しておかれたい。

 一方、書く力を育てるためには、どの学年や校種にも言えることだが、作品に必ず眼を通し、誤字脱字や表現の稚拙や間違っている表現や更に分かりやすい表現等には、赤ペンを入れ添削することが文章力を伸ばすことになる。赤ペンを入れることは、書かれている字数にもよるが、時間のかかる作業である。書く機会をできるだけ作ることと、作品の点検評価を赤ペンで行うことが、書く力を育てる一里塚になる。