日本を代表する思想家 柳宗悦氏(やなぎ むねよし)【1889年3月〜1961年5月没】は、「見て知りそ 知りてな見そ」と述べています。「直感は自由にするが、知識は限定する」の意味で、「知ることを先にして、見ることを後にしてはいけない」と教えています。
知ってから見ると、見方は「知」に邪魔されて、純粋に見ることができなくなるとのこと。余計な知識を与えないで、子どもの純粋なこころでものと向き合わせることの大切さを、幼児・初等教育では改めて大切であることを思い知らされます。
このことは1歳にも満たない孫の無心な行動からも見ることができます。あの柔らかい手のひらでものをギュッと握りしめ、指を動かし爪を立ててものに触れ、ものの特徴を掴もうとします。スイッチの釦や穴など小さなものや突起物に指が敏感に反応します。手がものの特徴を掴もうとしてセンサーになり、対象にくい入ろうとして認識します。
なんでも舌でなめて知ろうとし、大きな眼でジッと見つめて映像から確認しようとします。リモコンのスイッチ釦を押しては照明を点灯させ、スイッチ釦を押すことと点滅との関係に関心を持ちます。これは因果や可逆的関係の原初的な体験にあたると思われます。同様に温度の高低変化によって表面の色が変わるおもちゃも、同じ認識を狙っていると推測できます。車のエンジンを加速する際に出る音や高音の雑音などの時に両手で耳を塞ぐ行為は音に関する幼児の捉えを見て取れます。食事では口までもっていったおかずの匂いを鼻でかいで食べるかどうかの判断をします。
これらは幼児の対象への認識のほんの一例をあげましたが、子どもはこうして自らの感覚・五感(視覚・触覚・聴覚・臭覚・味覚)で実際のものに接し、つながり、行動を広げ、対象を認識していくことで、脳の様々な働きを発達させています。小学校教育(個人差はあるが特に5学年の10月頃まで)は「身体全体を使って学ぶ」という至ってシンプルな指導理念を大切にすべき所以であります。
知ってから見ると、見方は「知」に邪魔されて、純粋に見ることができなくなるとのこと。余計な知識を与えないで、子どもの純粋なこころでものと向き合わせることの大切さを、幼児・初等教育では改めて大切であることを思い知らされます。
このことは1歳にも満たない孫の無心な行動からも見ることができます。あの柔らかい手のひらでものをギュッと握りしめ、指を動かし爪を立ててものに触れ、ものの特徴を掴もうとします。スイッチの釦や穴など小さなものや突起物に指が敏感に反応します。手がものの特徴を掴もうとしてセンサーになり、対象にくい入ろうとして認識します。
なんでも舌でなめて知ろうとし、大きな眼でジッと見つめて映像から確認しようとします。リモコンのスイッチ釦を押しては照明を点灯させ、スイッチ釦を押すことと点滅との関係に関心を持ちます。これは因果や可逆的関係の原初的な体験にあたると思われます。同様に温度の高低変化によって表面の色が変わるおもちゃも、同じ認識を狙っていると推測できます。車のエンジンを加速する際に出る音や高音の雑音などの時に両手で耳を塞ぐ行為は音に関する幼児の捉えを見て取れます。食事では口までもっていったおかずの匂いを鼻でかいで食べるかどうかの判断をします。
これらは幼児の対象への認識のほんの一例をあげましたが、子どもはこうして自らの感覚・五感(視覚・触覚・聴覚・臭覚・味覚)で実際のものに接し、つながり、行動を広げ、対象を認識していくことで、脳の様々な働きを発達させています。小学校教育(個人差はあるが特に5学年の10月頃まで)は「身体全体を使って学ぶ」という至ってシンプルな指導理念を大切にすべき所以であります。