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yasuの「今日もブログー」

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「マルチチュード」 ‐ <帝国>時代の戦争と民主主義(読書感想)

2006-12-09 | 読書(政治、経済、社会, 科学)
Multitudeという語を辞書で引くと「多数」「大勢」といった訳語にあたる。 これに The が付くと、「庶民」とか「民衆」の意になる。 本書の「マルチチュード」は単数であり、「多様な多数の集合体」といった意味で提示される。 「マルチチュード」の対称概念としては「主権(sovereign)」が上げられよう。 よって、本書でも、17世紀-18世紀の啓蒙思想の時代に、絶対王政に代わり勃興してきたブルジョワジーの権利を保護するものとして、「代表制」と「主権」の概念が生まれ、それが国民国家の基礎となる概念として触れられる。

では、マルチチュードとは何か。 それは、国家の図版を超えて世界をネットワーク上の権力で統治しようとする例外的国家(アメリカを指す)やグローバル資本の展開する<帝国>に対抗するべく確立されるべき、多数者の群(ネットワーク)という概念だ。  著者によれば、冷戦が終わり、唯一の超大国となってからアメリカは、、自らは善であり己が打ち立てる秩序により世界を統治するというネオコン的理念によって、不断の戦争状態を作り出してきた。 しかし9.11以降の「テロとの戦い」におけるアメリカの単独行動主義は、イラクでは破綻しつつある。 アメリカは、いまだ<帝国>を成立させえてはいないが、イラン、北朝鮮と絶えず<帝国>の内部に新たな敵を作り出し、擬似戦争状態を作り出すことで、セキュリティー問題を最優先させ民主主義を減退させている。(日本もそのネットワークに深く組み込まれ、ミサイル防衛システムを配備し、核武装しようといった政治家が出ている。) マルチチュードは、そうした帝国の支配に対抗する唯一の手段だと、著者は呼びかける。 

では、「マルチチュード」は、「人民」や「民衆」とはどう違うのか。 それは近代の民主主義でいう「主権者」が、多様性を、統一性や均一性に収斂したものであったのと異なり、「マルチチュード」は、多数の差異性や特異性をそのままに保持しながら、自由かつ平等に社会的、政治的生産に関わる群れである点だ。  人間の労働は、マルクスが資本論を書いた産業革命進行時も今もかわらず、富を生み出す生産の源泉であることに変わりはない。 しかし、労働が農業や工業生産の労働から、「非物質的な労働」に移行してきたのがポストモダンの特長であり、そこでは、協働やコミュニケーションが、価値(富)を生み出している。 もはや資本家という権力に命じられるのでなく、マルチチュードが、自主的に「共」を生み出し、生産物を生み出しているという重要な変化があるという。

これは、経済的な生産についてはよくわかる。 今や生産財は、製品の機能や品質、耐久性だけではなく、デザインやエモーショナルな価値、コミュニケーション性といった「非物質的」において意味があり、これは、マルチチュードによる「共(コモン)」な活動による生産でしか作りえないと思えるからだ。

では、政治的生産においてはどうか。 著者は、99年のシアトルにおけるWTO会議への抗議運動や、メキシコのサパ二ィスタ民族解放軍の活動、さらにはアフリカやアジアの経済危機で起こったIMFや世銀による自由主義的資本主義論理の押し付けに対する反対運動を、マルチチュードのネットワーク的抵抗の例として称揚する。  

資本と通信システムの革命的な発展によって、世界市場が出現し、国家の図版をはるかに超えている現代において、主権とは何か、民主主義とはどうあらねばならないか、を本書は追求している。 「全員による全員の統治」という未完の民主主義の目標に今こそ取り組むべき時だ、という宣言は心を揺り動かすものでさえある。  一方で、 現実問題として、マルチチュードが、今の国民国家や「帝国」といった強大な主権者に代わるネットワーク的力を本当に持ちつつあるのかというと、やや懐疑的にならざるを得ない。 マルチチュードとは魅力的な概念だが、益々分断され階層化されていく現代社会の人間集団を見るにつけ、マルチチュードが自己統治により「全員による全員の統治」を実現するだとか、その達成には、政治的な「愛」が不可欠だと言われると、ユートピア的社会主義的構想ではないかという気がする。 そういう意味で、「プロレタリアート独裁」や「ソヴィエト主義」を現代に焼く直したごとく見えてくる危惧をはらむと言える。 

とはいえ、本書が指摘する民主主義の「代表制の危機」は限りなく進行し、アメリカでは、2000年の大統領選で投票そのものが政治的に歪曲された可能性があるし、日本では<帝国>のネットワーク維持の従属国家として軍備の強化や教育基本法の改悪を通じて、「国家主権」を国民に押し付けるような復古的な政権ができても、国民の反応は鈍い状況である。 郵政造反組の自民党復帰騒動などを見ても、国民の政治意識の低下を尻目に、代議制や民主主義は消えた、と思えるようなことが平気でまかり通っている。 4年に一度の衆院選挙で、小選挙区の二世、三世議員の顔を見比べたところで、民主主義のかけらも感じられぬのは無理からぬことだ。  政治システムのラディカルな改革が必要なことは疑いを待たない。

日本の国家ビジョンが真剣に討議され、自己保存のために声高に「主権」を主張するような政治家や、税の分配にいそしむ官僚の支配から、国家を主権者である国民の手に取りもどし、マルチチュードの多様性と自律性による下からの統治の実現に少しでも向かうように、「共」を創造していくことは、政治、経済、社会のすべての場において求められ続けなければならないだろう。






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