
友人で編集者の宮川章さんが亡くなって今日で丸6年。次第に記憶が遠ざかる中、没後一年の時に書いた文章(未発表)をここに残しておく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
友人の編集者、宮川章さんが亡くなってから、今月で一年になる。
先日、御殿場市の富士霊園にあるお墓にお参りをしてきた。一年たつのは、ほんとうにあっという間である。昨年1月に脳内出血で倒れ、すぐに歩行のリハビリも開始したのだが、食事がうまく取れずに誤嚥性肺炎のために、入院のうちに徐々に体力をそがれ、還暦になって間もない若さで旅立ってしまった。発症後、発語が上手くできなくなったので、病室での本人との会話はままならなかったが、入院当初は、本人も周りも、まさか命にかかわるとは思っていなかった。命日は3月14日。葬儀は親族と限られた範囲の友人でとり行われた。お骨は本人と奥様が通っていたプロテスタントの教会のはからいで、静岡県小山町にある富士霊園のクリスチャン共同墓地に納められている。
宮川さんとは、社会人一年生として広島のマツダ広報部に配属になった1984年1月以来のつき合いだったから、34年に及んだ。この間、私がアメリカに駐在した1989年から1994年にかけての期間も含めて継続的に付き合ってきたし、彼が1990年に出版社に転職してからも、広報と編集者という立場でときどき仕事上もかかわりがあり、また、友人としても親しく付き合ってきた。その歳月を通して、彼は聡明な頭脳と旺盛な批判精神、大胆な決断で人生の進路を変えて、常に刺激と箴言を(時には議論、口論にもなったが)私に与えてくれた。
会社の年次では1年、学年では2年上にあたる彼は、私にとっては博識で自分の意見を確固として持つ熱心な先輩であり、ともに文学部出身(彼は仏文)で、読書や音楽を好み、リベラルな思想を共有し、理屈っぽいという点で似たところが多かった(彼の方が、数段理屈が上手だったが。)
宮川氏は、マツダ広報部でもクルマや技術をよく研究し、1980年代後半に出た初代MPVやロードスター(Mazda Miata)をメディアで大きな話題にして成功に導いた立役者の一人であり、若き広報戦略家であった。彼が制作を担当したRX-7やMiataの特別装丁本(日英併記)などは後に残るものだったし、社内において広報の役割や影響力を知らしめた点でも、大きな一歩を記したと思う。
また、二玄社のNAVIの編集部に移った1990年頃には、一時帰国した私に、自分の書いた原稿が載った雑誌を嬉しそうに見せて、「まだまだ筆力が足りない、修行しないと」と語っていたことを思い出す。当時の辣腕編集長のSさんへの尊敬の言葉も語っていたから、その後、2年とたたないうちに、同僚の編集部員たちとともに編集長の「圧政」に反旗を翻して二玄社を退社し、P5という会社を立ち上げことを海の向こうで聞いた時には、驚いた。
P5を立ち上げて以降は、世界文化社のMen’s EXのクルマページや、増刊で始まったCar EXの創刊編集長を引き受けて大変な時期だった。私は帰国後転職して、1997年春のGMサターンの立ち上げチームに加わり、お互い忙しかったこともあり、青山のP5の事務所には1~2回足を運んだのみだった。そして彼が心血を注いだCar EXが休刊になり、最も苦しい時期が訪れたようだ。洗礼を受けた1998年頃がもっともつらい時期だったのだろう。私はサターンの企業理念に心酔し、このブランドをなんとか成功させようと全力投球していた頃だから、最もつらい時期の彼のことはあまりよく知らない。
サターンが、2000年に日本撤退を決め私が憔悴していたころ、宮川さんには新たな展開が訪れていた。「ちょいワルおやじ」で一世を風靡したLEONの創刊だ(2001年9月)。世界文化社のMen’s EX, Begin, Car EXなどで仕事を共にしたK編集長のいわば参謀のような形で、主婦と生活社でLEONを立ち上げ、彼の頂点が到来した。LEONは、バブル崩壊と1997年4月の消費税引き上げを発端とする日本の金融危機で窒息しかけていた日本の富裕層の欲望を解き放ち、大らかにお金を使って見せる諸術を指南して売れに売れた。宮川さんもこの時は、大得意であったはずだ。2002年春にGMジャパンのマーケティングコミュニケーション担当の任についた私は、当時フォルクスワーゲンを追撃していたオペルブランドの宣伝広報も見ることになり、初めて本格的にドイツ車に触れることになった。新型ベクトラで、LEON巻頭10ページのタイアップを実施したが、それも宮川氏の直南の企画だった。
2003年、GMが大規模なリストラを行い、アシスタントと2人のみで商品広報の担当に異動した私にも転機が来た。2004年夏、フォルクスワーゲンの広報部長の誘いがヘッドハンターから来たのだ。従業員を一挙に6割も削減したGMジャパンに限界を感じていた私は、この面接を受けながら、宮川さんに転職判断について尋ねた。彼は言下に「絶対行った方がいい」といい放ち、私の心は決まった。
一方、彼の誘いを断ったこともある。2007年、主婦と生活社を退職するK氏が立ち上げた男性ライフスタイル誌「Zino」だ。当時、K氏はLEON時代のスタッフや人脈をもってこの新雑誌を立ち上げるべく会社を興した。LEONまでの経緯から、K氏とともに成功体験を共有した宮川氏は、リスクは承知しながらも、@Zinoというネットメディアを先行ローンチするなどして、この賭けに打って出た。私も誘われ、面接も受けて入社のオファーをもらったが、最後の瞬間に実家の母の「出版のようなこれから大変なところにいくべきではない」という一言で思いとどまったのだ。マツダ広報時代の同僚の一人はこの船に乗ったが、その後、一年あまりで雑誌休刊、会社精算となって彼は金銭的損害も受け、その後、宮川さんとの交友が途絶えた。
Zinoでの挫折は、宮川氏の編集者としてのキャリアにも影をもたらした。その後は、かつての世界文化社の仕事で関係があったT氏が編集長を務める男性ファッション誌のクルマ担当アドバイザーを勤めたりしたが、仕事の中心は、私が勤めるフォルクスワーゲンの広報資料や制作物に移っていった。その間、元々二玄社への転職の紹介をした徳大寺有恒巨匠による「間違いだらけのエコカー選び」を編集したり、岡崎宏司氏の「フォルクスワーゲンと7th. ゴルフ」を企画編集したりした。私のVW広報時代の仕事も、彼の助言やプロデュースに負うところが大きい。
その後、2015年春に私がVWを辞めることになり、結局アウディに移る際も、親身に相談にのってくれた。プレミアムブランドの経験がない私に色々とアドバイスをしてくれたし、私は広報資料などの仕事をお願いする関係が続いた。
特に近年は頻繁に、月に一度は近所で食事をしていた私たちの関係は、昨年1月に彼が倒れたことで中断してしまった。ただ一年たっても、まだ彼が遠くに行ってしまったような気がしない。またひょっこりと、近所のうなぎ屋や居酒屋で同じ皿から肴をつつき、ビールを矢継ぎ早に煽っていることがありそうに思える。ツイッタ―で論戦をふっかけている相手のことや、政治の体たらくを嘆きつつ、最近見て良かった映画やYouTubeで見つけた往年の大家の演奏の事を話題にして夜は更けていく。仕事の話はほとんどしなくて最後にちょっとだけ、ということも多かった。「この世界の片隅に」という素晴らしい映画を教えてくれたり、スーザンボイルが誕生したTV番組について口論したり、私が最近読んだ本の事を話したり、と話題が尽きるということはほとんどなかった。私としては、読書や音楽を愛し、リベラルな精神を奉ずるという点で、心を共有していたと信じている。宮川さんが私のことを本当はどの程度評価していたのかはわからないが、その点においては、二人は「同士だ」と言ってくれたことが、私には一番うれしかった。
最後に宮川さんに性格について。
宮川さんは、時に激しく議論したり、他人に率直にモノを言うために、少なからず人を遠ざける原因になっていたようだ。彼は口は災いのもと、と一番よく知っていただろう。だが、本当に思っていることを言わないのは彼の信条に反していたのだ。そして言い過ぎた時は反省していた。また彼は、自信家、野心家でもあった。自分の能力を誇示するような発言も時にあったし、他人のことを見透かしたような態度で、不興を買ったこともあるだろう。彼は、その弱点も良く知っていたが、自分が正しいと信じる思いが強い分、容易に引き下がらず、目上の人やクライアントにも強弁して煙たがれていたと思う。私は、大体8割くらいは彼の話を聞く側で相槌を打っていたし、自分が納得できないとき以外は、それほど反論した記憶はない。「丸ちゃんは、自我は肥大しているけど、自己顕示欲は次男、三男のものだね」とは、宮川さんからまだマツダ時代に聞いた言葉だ。これが、自己顕示欲が強い者同士だったら、ぶつかるのは避けられないだろう。
宮川さん、長いこと有難う。
あなたのことについて、この一年間は文字にできなかった。
あなたの事をときどき思い出しながら、残りの人生を大事に生きます。
いつかまた、天国でお会いしましょう。
平成31年3月
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます