goo

佐藤優著 「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」 

2007-08-15 | 読書(芸術、文学、歴史)
今日は62回目の終戦記念日。 昨晩はNHK特集で、東京裁判でA級戦犯全員無罪の判決文を書いたインドのパール判事の話をやっていた。 よく言われる「平和に対する罪」および「人道に対する罪」というのは当時の国際法の概念になく、極東裁判所を開廷するにあたり新たに設定した基準で過去を裁くことを根本的に間違いとするのがパール判事の立場だ。 パール判事は、当初から自分の見解を11人の全判事に回付した。 これに対しイギリスから派遣された判事は、「任命された裁判官は、設定されたルールの下で仕事をすべき」と反論し、カナダやシンガポールの判事を取り込み多数派工作をするが、この背景には、先のニュルンベルグ裁判で、ドイツナチスを同様の罪状で裁いており、東京裁判でもこの形を踏襲する必要が米英にあったからだ。 極刑に反対し続けたオーストラリアの判事で裁判長のウェブや、パール判事に影響されたオランダの判事はこうした多数派工作に与せず、2年余りの裁判の途中には、統一した判決が出ないかもしれないと危ぶまれる時期もあったようだ(因みにマッカーサーは、当初から東京裁判に反対だったという。)

番組は、勝者が敗者を裁くので結果は決まっていた、という一般的な認識とは異なる東京裁判の内側の暗闘を照らして見せた。 パール判事が独自に書いた判決は全部で1400ページになるほどの膨大な量であるらしく、そこでは欧米の帝国主義や植民地政策が痛烈に批判され、日本の中国侵略や南京事件、バターン死の行進なども同様に非難されているという。 パールは、ガンジーの非暴力、不服従を理想として尊敬していたらしく、彼の判決は帝国主義や植民地主義を憎む同氏の強い意志に貫かれているという(日本語訳も文庫で出ているらしい。) パール判決は、200年以上イギリスの植民地とされたインドの代表ならばこそ、アジアの同胞日本に肩入れしたといった単純な話では全くなかった。

ところで、毎年この時期は自然と戦争関連の書籍に向かう傾向にある。 今回も佐藤優の表題の本を書店で求めた。 昨年も書棚で見かけたと思うが、表紙の若き大川周明の凛々しい和服姿の写真が印象的だ。大川周明は515事件で投獄され、思想犯、政治犯として東京裁判に召喚されたが、初公判でウェブ裁判長が開廷の言を述べている最中に、前にいた東条英機のはげ頭を平手でぴしゃりと叩いたりして、結局精神異常で免訴されている。その大川が1941年の12月の対米英戦開戦直後に、NHKのラジオで2週間にわたり放送したという「米英東亜侵略史」は、この思想家の戦前戦中での位置づけを知る意味でも、また当時の国民に国が何を聞かせたかったを知る意味でも貴重な資料であることは間違いない。この講和は、ラジオ放送のすぐ後に出版されベストセラーになったらしい。 前半の6日間が、アメリカのアジアおける帝国主義戦略の解説。 これは忠実に歴史を追って、いかにアメリカが日本のアジアでの勢力拡大を阻止し、自国の中国権益を進展せんとしたかが語られている。 後半の一週間は、大英帝国の17世紀から19世紀におけるインド、中国での帝国主義を振り返る。 この二つの講話をはさんで、佐藤優の解説と現在の日本の置かれている状況への類似、教訓が語られる。  

世界は911テロ以降、「ポスト冷戦後」といった新しいステージに入りつつあり、そこでは、「冷戦後」のアメリカの普遍主義による一極支配ではなく、超大国アメリカに対峙して、地域統合を成し遂げたEUや中国、アラーによる統治を信奉するイスラム原理主義などの勢力が棲み分けて存在する世界が出現しつつある。これは西欧世界に対し、大東亜の世界の並存を期して日本が立った20世紀前半の状況に類似していると言うのが佐藤の認識だ。日本の国体は「絶対的な原理を押し付けず、多元的価値を認める寛容さ」に代表されること。 「内なる悪を除くには、内なる善をもってこれを成すほかない」(外からの借り物―西洋の自由主義などではこれは成せない)といった大川の著作から導き出される日本独自の国家観、世界観を、佐藤は現在の日本に必要な認識であると称揚している。

戦前の日本を軍国主義者による帝国主義戦争の愚、と一言に片付けることに、戦後生まれの世代は大した疑問も持たずにきた。 確かにそれはかなり極端な合理化で、大川の講和を読んだりすると、帝国主義の露骨な闘争に日本は無念にも敗れたという一面は否定できないとも思う。  日本の歴史教育は、せいぜい明治維新から大正デモクラシーで終わっており、昭和、特に第2次大戦に到る頃については、ろくに学んでも教えてもこなかった。 過去の惨禍から目を背けたい国民感情を巧みに利用した、戦後教育の一面性があったかもしれない。 昨今、日本人とは、日本とは何かということを問う日本人論が大変盛んであるが、別に右翼的保守的思想の持ち主でなくとも、日本の伝統や思想の歴史を学び直す時期にきているという気はする。  62年間、毎年終戦記念日には、戦争は二度としてはいけないという誓いを新たにしてきた日本人の心に、武力による国際紛争の解決、核兵器や戦争による殺戮を厭う気持ちは深く根付いているといえるだろう。それゆえに、日本人のあり方を改めて歴史を学びながら、考えることは今なら可能だろう。 安倍内閣が危なっかしいと思われているのは、彼の改憲論、教育基本法の改正などが、岸伸介の孫のお坊ちゃんは盲目的に戦前の価値観や国体護持の理念の復活を目指しているのでは、という危惧を国民が感じているからではないか。 

佐藤優は、日本の外交は性善説で失敗した、外交の巧者は常に性悪説だ、と言っているが、それは政治家、外交官がやればいいのではないか。 世界第二位の経済大国でありながら、EUや中国、イスラム諸国が伸張する中で、アメリカ一極主義の日本の存在感が次第に希薄になりつつある。 またグローバリゼーションや市場主義といった普遍主義が世界を席巻するほどナショナリズムが強まるのはある種必然だが、日本人は、その多元的価値観、寛容な精神によって、平和的な国民国家として世界に尊敬される資質を持っており、その長所を伸ばすことで世界でその独自の民族的個性を発揮できるのではないかと思う。 


goo | コメント ( 1 ) | トラックバック ( 0 )
 
コメント
 
 
 
Unknown (中山)
2007-08-17 11:19:14
yasumaruさんの前向きなメッセージに一票!
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。