最近、気になっていたブログをたまたまある気になる著名人のページで見つけた。 コメントやトラックパックの機能が便利そうで始めてみることにした。 HPはもう数年やっていて掲示板もあるのだけれど、どうしても集まる人が限られるし、テーマからはずれたことは書き込み難い。 その点、ブログだと自分の関心あるテーマにコメントしたりトラックバックしたりできるのが、人気の高い理由なのでだろうか。
日記も一人で毎日こつこつとつけるのは根気がいるけど、その都度、テーマに応じてブログページを探したりトラックバックすれば、コミュニケーションが成立しそう。
というわけで、これから考えたことを書き付けて行こうと思う。
最初の日は、昨日読んだ「新潮」8月号の柄谷行人と福田和也の対談から。
いきなり小難しいですが、「文学や哲学が死んだ」といわれる現在、考えることは可能か、というテーマは面白かった。気になったところを私なりに抽出すると、
- 「考える」という行為が不可能になった理由の一つは、世界を駆け巡る情報の量と流通スピードが飛躍的に高まったためだ。 インターネットで世界中の情報が瞬時に手に入る現在、人間は考える主体ではなく情報の「インターフェイス」に過ぎなくなっている。 情報を取捨選択し、考えて判断するには、情報の量と伝達スピードがあまりに速い。 哲学や文学の成立に不可欠だった人間の「内面」は、一種の「遅れ」によって成立していた。今はEメールによって即時に情報に反応する。翌朝には、昨日の反応はちょっと違っていたと修正する。 その修正を限りなく続けていくうちに、やがて「遅れ」は消滅し、「考える」という行為が成立しなくなり「内面」も消える。(柄谷)
- ITの進歩は、土着性や国家という枠組みをもあいまいにした。 かつては、どの国に、どのコミュニティーに帰属するかが、「考える」ことにとって重要だった。今は、すべてが商品価値として交換される市場経済主義が世界中に蔓延し、ルールとなっている。 その市場経済主義に対抗する枠組みは国家や言語でさえもなくなっている。 宗教がその一つの対抗手段であるかもしれず、イスラムやキリスト教の原理主義は、そうした市場主義経済の中で阻害されつつある人間が、自己を回復する場として捉えられているようだ。(柄谷)
もう一つ、村上春樹の文学への柄谷のコメントはなるほどと思った。村上を高く評価する福田が、
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、主人公の内側と外側の世界が2分して存在したものが、「海辺のカフカ」では、完全にその区別がない、世界の完全な内面化が出来上がっている。内面がすべてを覆っているということは、内面がなくなったと同じことで、そこには社会も現実もなくなった、と評する。
これについて柄谷は、「世の終わりと、、、、」は「意味は情報の下に消滅してしまった」かのような小説だったが、村上はそこで「考える」ことを辞めてしまう。彼はそこで「ロマンス」に行ってしまい、「ノルウェーの森」以降を書いてベストセラー作家になった、と言う。
確かにこの指摘は納得できる。村上春樹の物足りなさは、彼が主人公と世界の衝突を避けているからだった。 内面化され、主人公の主観の中で都合よく処理される外側の世界には、ドラマが生まれない。もちろん、これに満足せず、村上は、「アンダーグラウンド」や、「ネジ巻き鳥クロニクル」を書いたのだろうが、過去の歴史を持ってきた「ネジ巻き」も「カフカ」も、内側と外側の相克がない。 現実に生きている生身の人間は、失われつつある「世界」を認識しようとし、それに積極的に関わろうとするのだが、村上の小説は、その小説世界を越えて答えを与えてはくれないように思う。 そこが、桐野夏生などの持つリアリティーと決定的に違うと感じる。
文学としては、一時の吉本ばななや山田詠美は、若い女性のリアルな現実感覚があって生きている。 最近は、男の書くものの方が、暴力にしても性にしても、どうも作り物ばかりで面白くない。 夏目漱石が「明暗」で描いた近代人の自我とエゴイズム、小島信夫が「抱擁家族」で展開した夫婦と家族の不可能性を近代小説の到達点と、「成熟と喪失」で江藤淳が喝破して以来、男の小説は新しい展開がないようである。 ノスタルジーやバーチャルな世界に留まる男に対して、女性の方がはるかに自由に挑戦しているように見える。 (了)
日記も一人で毎日こつこつとつけるのは根気がいるけど、その都度、テーマに応じてブログページを探したりトラックバックすれば、コミュニケーションが成立しそう。
というわけで、これから考えたことを書き付けて行こうと思う。
最初の日は、昨日読んだ「新潮」8月号の柄谷行人と福田和也の対談から。
いきなり小難しいですが、「文学や哲学が死んだ」といわれる現在、考えることは可能か、というテーマは面白かった。気になったところを私なりに抽出すると、
- 「考える」という行為が不可能になった理由の一つは、世界を駆け巡る情報の量と流通スピードが飛躍的に高まったためだ。 インターネットで世界中の情報が瞬時に手に入る現在、人間は考える主体ではなく情報の「インターフェイス」に過ぎなくなっている。 情報を取捨選択し、考えて判断するには、情報の量と伝達スピードがあまりに速い。 哲学や文学の成立に不可欠だった人間の「内面」は、一種の「遅れ」によって成立していた。今はEメールによって即時に情報に反応する。翌朝には、昨日の反応はちょっと違っていたと修正する。 その修正を限りなく続けていくうちに、やがて「遅れ」は消滅し、「考える」という行為が成立しなくなり「内面」も消える。(柄谷)
- ITの進歩は、土着性や国家という枠組みをもあいまいにした。 かつては、どの国に、どのコミュニティーに帰属するかが、「考える」ことにとって重要だった。今は、すべてが商品価値として交換される市場経済主義が世界中に蔓延し、ルールとなっている。 その市場経済主義に対抗する枠組みは国家や言語でさえもなくなっている。 宗教がその一つの対抗手段であるかもしれず、イスラムやキリスト教の原理主義は、そうした市場主義経済の中で阻害されつつある人間が、自己を回復する場として捉えられているようだ。(柄谷)
もう一つ、村上春樹の文学への柄谷のコメントはなるほどと思った。村上を高く評価する福田が、
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、主人公の内側と外側の世界が2分して存在したものが、「海辺のカフカ」では、完全にその区別がない、世界の完全な内面化が出来上がっている。内面がすべてを覆っているということは、内面がなくなったと同じことで、そこには社会も現実もなくなった、と評する。
これについて柄谷は、「世の終わりと、、、、」は「意味は情報の下に消滅してしまった」かのような小説だったが、村上はそこで「考える」ことを辞めてしまう。彼はそこで「ロマンス」に行ってしまい、「ノルウェーの森」以降を書いてベストセラー作家になった、と言う。
確かにこの指摘は納得できる。村上春樹の物足りなさは、彼が主人公と世界の衝突を避けているからだった。 内面化され、主人公の主観の中で都合よく処理される外側の世界には、ドラマが生まれない。もちろん、これに満足せず、村上は、「アンダーグラウンド」や、「ネジ巻き鳥クロニクル」を書いたのだろうが、過去の歴史を持ってきた「ネジ巻き」も「カフカ」も、内側と外側の相克がない。 現実に生きている生身の人間は、失われつつある「世界」を認識しようとし、それに積極的に関わろうとするのだが、村上の小説は、その小説世界を越えて答えを与えてはくれないように思う。 そこが、桐野夏生などの持つリアリティーと決定的に違うと感じる。
文学としては、一時の吉本ばななや山田詠美は、若い女性のリアルな現実感覚があって生きている。 最近は、男の書くものの方が、暴力にしても性にしても、どうも作り物ばかりで面白くない。 夏目漱石が「明暗」で描いた近代人の自我とエゴイズム、小島信夫が「抱擁家族」で展開した夫婦と家族の不可能性を近代小説の到達点と、「成熟と喪失」で江藤淳が喝破して以来、男の小説は新しい展開がないようである。 ノスタルジーやバーチャルな世界に留まる男に対して、女性の方がはるかに自由に挑戦しているように見える。 (了)
一応読んでるし、「海辺のカフカ」なんてホントに良く出来ていると思います。 でも私が最近一番感心したのは、「アンダーグラウンド」です。それは、地下鉄サリン事件のドキュメントだったからだし、筆者が現実のぶつかッて行く姿勢がはっきり読み取れたから。 笠井潔がどこかで言ってましたが、村上春樹はもともと「喪失の叙情」を謳った作家で、それが処女作の「風の詩を聞け」から始まる羊シリーズで一番自然に出ていた。 「ノルウェーの森」で一度見放したけど、「ネジ巻き、、」から「アンダーグラウンド」、「神の子たちは皆踊る」あたりからまた凄みを帯びてきた、と思います。 そういえばまた新作が出ましたが、多作するよりは深みのある作品を5年に一度出してくれたらいいと思います。