ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

ロベール・ブレッソン・6~『少女ムシェット』

2019年04月25日 | 1960年代映画(外国)
『少女ムシェット』(ロベール・ブレッソン監督、1967年)を観た。

フランスの寒村。
鳥などを密猟しようとするアルセーヌを監視していた森番のマチューが、罠に掛かった鳥を逃がす。
このアルセーヌとマチューは共に、カフェに勤めているルイザを好いている。

同じ村で、道路沿いに住む少女のムシェットは、学校の音楽の時間に自分一人だけ歌わなかったり、
学校の帰り、他の生徒たちに土の塊を投げつけたりして、ひとりひねくれて孤立している。
そのムシェットがある日、学校を途中でサボって森に入っていく。

森番のマチューは、ルイザを断念させるため、罠を仕掛けていたアルセーヌをやっつけようとする。
しかし反対にアルセーヌに殴られ、その後は水筒の酒を二人して飲んで、両人とも記憶が定かでなくなる。

やがて天気が急変し、嵐となって来る。
木の下で雨宿りしていたムシェットの前にアルセーヌが現れ、濡れているムシェットを小屋に連れていく・・・

ムシェットの家庭環境は、乳飲み子を抱えている母が病床に伏せっている。
だから、乳飲み子にミルクをやったりおしめを替えたりするのはムシェットの役目である。
父と兄は、酒の密売をしながら、僅かながらのその日暮しの生活をしている。
この父親は、ムシェットがカフェの皿洗いをした金を出させたりして、何かとムシェットを邪険に扱う。

そんなムシェットが嵐の夜をアルセーヌと過ごし、淋しさを紛らわすためかこのアルセーヌに抵抗もせず身を任す。
衝撃的なのは、たったの14歳の少女がアルセーヌの背に手を回し、受け入れる意思を示すことである。
そして村人に対し、“私はアルセーヌの愛人よ”とまで言わしめるまでの、これほど孤独で愛に飢え、心のよりどころのなさが痛々しい。

母が死に、それでもムシェットは赤ん坊のためにミルクをもらいに行かなければならない。
母のことを慰められ不憫に思われても、同情とは裏腹の“ふしだら”とムシェットは言われる。
また、“うんざりしている”と言うムシェットの言葉に、“なんて悪い子だね、罪深い悪意に満ちた目だよ”と言われたりする。

その後でのシーン。
狩りで、追い詰められて撃たれたウサギが息絶え絶えになる。
このウサギのように行き場のないムシェットは、心と身体を開放するため、自ら池に落ち、再び浮かび上がって来ない。

ムシェットの物語は、単純すぎる筋書きであっても、観客に対しては冷徹なまでに同情を拒否する。
その冴えわたっている腕前は、さすがブレッソンならではと感じた。
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ロベール・ブレッソン・5~『バルタザールどこへ行く』

2019年04月23日 | 1960年代映画(外国)
『バルタザールどこへ行く』(ロベール・ブレッソン監督、1966年)を観る。

フランスの小村ピレネー。
教師の娘マリーは、仲のいい農場の息子ジャックと、生れたばかりのロバを拾い、“バルタザール”と名付け可愛がる。
しかし、ジャック家は農場と共にバルタザールも手放し、引っ越していく。
それから何年か経ち、鍛冶屋で重労働させられていたバルタザールが逃げて、マリーの家にやって来る。
マリーは、バルタザールとの久しぶりの再会を喜び夢中になる。
マリーに思いを寄せているパン屋のジェラールは、それを見て面白くない。

その頃、農場を手に入れていたマリーの父とジャック家との間で訴訟問題が起きる。
マリー家はそのために家を手放し、バルタザールはジェラールの家に買われていく。
マリーへのモヤモヤのために、ジェラールは不良仲間と一緒になってバルタザールを痛めつけ、こき使う執念に燃える・・・

例のごとく、ブレッソンの冷静で淡々とした映像の流れ。
その個々のカットから、作り手のほとばしる内なる思いが見えてくる。
しかしそのようなことは納得できても、物語の筋書きの細部がイマイチ理解できない。
要は、物語の背景があまりにも徹底してそぎ落とされていて、観客を度外視した作りのためだろうとしか思えない。

だから、インターネット上でこの作品の物語の筋をいろいろと読んでみて、再度観直し、やっと成る程と納得できた。
そのようにしてDVDで確認しながら観ればさすがの内容と感心するが、劇場で鑑賞した場合、やはり、分かったようで分からない気持ちを抱いたままになるのではないか。

小さかった時のジャックとマリー。
将来はマリーと一緒になれると夢想していたジャックが、大きくなったマリーに会う。
マリーは言う。
“あなたが見ているのは昔の思い出、私は変わってしまった。
私たちの愛の誓いは子どもの頃の思い出、想像の世界。現実は違う“と。
それでも、昔の夢を手に入れようと、一歩踏み出したマリーにショックな出来事が襲う。

人間社会による諸々の小さな出来事。
それに影響されるバルタザールのその時その時の運命。
このロバの、バルタザールの心優しいとか言えない眼差しが強烈な印象として残る。

それと、少女マリーを演じたアンヌ・ヴィアゼムスキー。
ブロッソンは、シロウトばかりを起用する監督なので、この時当然ヴィアゼムスキーは映画初出演だった。
後に、ジャン=リュック・ゴダール監督と結婚するきっかけのゴダール作品『中国女』(1967年)に出演する。

若かった頃、部屋の壁にこの『中国女』の大きなポスターを貼っていた。
思えば当時、何がなんでもゴダールでなければと粋がっていた頃が懐かしく蘇る。
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『夜空に星のあるように』を観て

2018年09月07日 | 1960年代映画(外国)
ケン・ローチ監督の長編第1作、『夜空に星のあるように』(1967年)をやっと観た。

泥棒家業を続ける青年トムと成り行きで結婚してしまったジョイ。
産まれたばかりの赤ん坊にも無関心で暴力までふるう夫に対し、彼女は嫌気がさしていた。
そんなある日、トムはついに逮捕され、ジョイは叔母の家に居候させてもらうことになる。
そこに訪ねてきた夫の仲間デイブ。
彼女は優しいデイブに惹かれ、一緒に暮らし始めるが、彼もまた強盗事件で逮捕されてしまい・・・
(映画.comより)

この作品を観たと言っても、もう一ヶ月ほど経ってしまった。
正直に言って、作品の内容に感心しても、肝心の感想がどうしても書けないと言うのが本音である。

ジョイの生活の、それも希望とは裏腹の、淡々としたエピソードが積み重ねられていくようなドキュメンタリー・タッチ。
一般社会的に見れば当然に悪の、犯罪行為に及ぶトムを、この映画は肯定も批判もせず映し出す。
そして、トムの仲間のデイブも犯罪に絡んで社会からはじき出される。
そのような状況の中で、ジョイは子のジョニーを養いながら生きていく。

ジョイは刑務所のデイブに手紙を書き、幸せを夢見るが、現実からは抜け出す方法が見当たらない。
パブのウェイトレス、次にヌードモデル、そして店主の情婦となっていくジョイ。

出所したトムとの再度の生活。
しかし、諍いからトムと別れを考えるジョイ。
そしてラストに、デイブとの夢を語るジョイ。
だが、現実はあくまでも厳しい。

ケン・ローチの下級階層を見据える目は、シビアで冷徹である。
それを的確に捉えているのは、ドキュメンタリーと錯覚するほどの客観的な映像作りである。
そんなケン・ローチに、ただただ敬服する思いしかない。
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忘れ得ぬ作品・5〜『ケス』

2016年05月08日 | 1960年代映画(外国)
制作されてから27年後の1996年にやっと劇場公開なった作品『ケス』(ケン・ローチ監督、1969年)を、
当時、待ちに待った思いでミニシアターまで駆けつけた。
しかし、この作品はカラー映画なのに、記憶の中ではどうしてもモノクロのイメージが強い。
と言うことは、それ以前にテレビ放映されているから、その時に観ていてそれが記憶が残ったままだろうか。
そこのところがよくわからないが、この映画自体の印象は今でも鮮明である。

イギリス、ヨークシャー地方の炭鉱がある町。
母と兄の三人暮らしの少年ビリー・キャスパーは、中学卒業を間近に控えている。
家も貧しく、学校に行く前には新聞配達をしている。炭坑労働者の兄とも年が離れている。
その兄は自分のことが精いっぱいで、ビリーに愛情のかけらも持っていない。

ある朝ビリーは、森の中に一部だけが残っている廃墟の、高い石壁にハヤブサの巣を見つける。
そして、ヒナを育てて訓練したいと、本屋から「タカの訓練法」の本をこっそり盗む。
熱心にその本を読んだビリーは、とうとう巣から一羽のヒナを手にして・・・・



体格が小柄で貧弱なビリーは、勉強が好きでなく運動も苦手。要は劣等生。
その彼が、ハヤブサのヒナを育てて、自分の思うように飛ばせてみたいと、そのことに熱中する。
一人の少年が、ひとつの事に熱中し、鳥と交流しながら愛情を捧ぐその姿。
教室のホームルームで、「何か自分のことを話しなさい」と言われ、
グズグズしていたビリーが、徐々にハヤブサのことを話し始め、ついには夢中になって話すその口調。
その思いに先生やクラスメートも、遂には一言も聞き逃さないように引き込まれる。
そんなビリーに、思わず、何ともいえない深い感動を覚えられずにはいられない。

この作品は、少年と鳥との交流の単なる成長物語ではない。
直接的には描かないが、そこでは、弱者が生きていく社会背景が隠し絵のようにしてあぶり出される。
そして、鋭く冷静に描くその内容は、あたかもドキュメンタリーのようである。
寒い運動場でのサッカー。その時の教師の身勝手さ。
また、違反をしたと言って、生徒の言い分を一切聞かず罰を加える校長。なんの罪もない哀れな優秀生徒。
それを弾劾するのではなく、ユーモアさえ漂わせて客観的に描く。

ラスト、兄の約束を破ったビリーに悲劇が襲う。
そのビリーの悲しみが痛々しい。
映画は、社会の底辺にへばり付く労働者階級の貧困も含めて、その社会そのものを静かに告発する。
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『コレクター』(1965年)を再度観て

2016年04月18日 | 1960年代映画(外国)
先日、『ルーム』(レニー・エイブラハムソン監督、2015年)を観て『コレクター』(ウィリアム・ワイラー監督、1965年)を思い出した。
劇場で観た当時、誘拐監禁された女性がいかにして脱出できるのかハラハラ・ドキドキし、強烈に印象深かった作品なので、この際もう一度観てみた。

小さい頃から蝶の収集が趣味のフレディは、ある日、人里離れた立派な館の売家に出くわした。
銀行勤めの地味なフレディだが、偶然くじが当たり、その資金によってこの屋敷を手にする。

フレディは、前から目を付けていた美大生のミランダをターゲットとしてワゴン車で後をつけ、強引にクロロホルムで誘拐を実行する。
屋敷の納屋の地下室に閉じ込められ恐怖におののくミランダは、フレディから「前から愛している」と言われて・・・・

監禁の契約期間は4週間。
その間に、フレディはミランダから愛してもらおうと考えている。
だから、態度は紳士的ある。決して変なことをしようとは心から思っていない。
片や、ミランダは身体的な束縛はなくっても監禁の身。
いかに、フレディの気を和らげて逃げ出す方法はないかと機会をうかがう。

監禁した以降は、ほぼ二人だけの場面設定で、その心理的なやり取りがどこまでも緊迫感のある状態として、観る者に訴える。
それを、テレンス・スタンプとサマンサ・エッガー が目の動きで表す。

ある日フレディは、屋敷の二階の風呂に入ることをミランダに許可する。
そこへ、年のいった隣人の男性が訪ねて来る。
バスタブの湯を流しっぱなしにして、監禁されていることを知らせようとするミランダ。
床を流れる水。そして、二階から滴り落ちる水。そのサスペンス。

サスペンスはラスト近くのクライマックスにも現れ、ことの流れは急転化する。
蝶を愛するように、コレクトしたミランダを愛するフレディ。
この不気味な物語は、次の獲物をねらうフレディによって続く。

まだ余震が続くこの度の地震により、亡くなられた方、怪我をされている方、
救援物資も不足し11万人に及ぶという避難生活を強いられている方のことを思うと、
のうのうとこのような記事を書いていていいのかと、ためらう気がないではありません。
被災された方たちが、一刻も早く、今までの日常生活に戻られることを願ってやみません。

ここに、ブログ「九州産野菜・果物 大分の石川青果のエーコです!!」さんの“熊本市内炊き出し&支援物資情報”と、
「すみっこにあるブログ」さんの“熊本支援、私たちにできることは”をリンクしておきたいと思います。
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忘れ得ぬ作品・3〜『シベールの日曜日』

2016年03月30日 | 1960年代映画(外国)
何年経っても、いつまでも心に残っている映画がある。
『シベールの日曜日』(セルジュ・ブールギニョン監督、1962年)。
10代後半に劇場で観ていても、なぜかNHKテレビの放映で観たという記憶の方が強かった作品である。

10年ほど前から、是非もう一度観てみたいと思ってネット検索してみると、当時中古ビデオでもプレミアムが付いていて、とても手が出せなかった。
そのまま渇望した思いを抱いていたら今から6年ほど前に、やっとDVD化される情報を知り、予約申し込みをして念願のこれを手にした。

パリからほど近い町ビル・ダブレ。
インドシナ戦争で記憶を無くしトラウマの中で生きるピエールは、寄宿学校に入るためこの町へとやってきた少女に出会う。
少女の孤独に自分と通じるものを感じたピエールは、看護師の恋人マドレーヌが仕事でいない日曜日ごとに少女を連れ出し、湖のほとりでふたりだけの時間を過ごす。
しかし、周囲の人々はそんな彼らを怪訝なまなざしで見ていた・・・・
(DVDパッケージより)

たぶん、パイロットとしてひとりの少女を射殺してしまっただろうと意識する、その過去も消え去ってしまったピエールの記憶障害。
そして、親に見捨てられてしまった12歳の少女フランソワズの孤独。
その二人が偶然とはいえ、出会うことによってふたりだけの世界を作る。
ピエールが仮の名のフランソワズに、「名前は?」と聞く。
あの教会の風見鶏を取ってくれたら、本当の名を教えてあげると言う。

愛情に飢えているフランソワズは、おしゃまでピエールに対して恋人気取り。
その淋しさを押し隠した姿が天真爛漫そうでいて、傍から見ていじらしい。
そのフランソワズに、過去を思い出さない孤独なピエールが寄り添う。
本当に、二人だけの至福。
それを他人は、傍目で何気なくいぶかしむ。

自分に理解できない、よくわからない人、そのような相手に異常者というレッテルを貼って納得したつもりの人たちがいる。
決して、悪い人たちではないけれど、善人ぶった裏にある傲慢さがわずかに透けてみえる。
その結果、どうなるか。
そんな純真無垢のふたりに、他人はどのような取返しの付かないことをしたのか。

クリスマス・イブのささやかなフランソワズのプレゼント。
本名は「シベール。ギリシャ神話の女神の名なの」。

ラスト。シベールの「私にはもう名前がないの」と、泣きながらいう絶望に対して、私たちはどう言葉を返したらいいのか。
シベールのその後のことに思いを馳せると、いつまでも悲しみが心に響く。
そして、少女“パトリシア・ゴッジ”の愛らしい面影と、池の周りの風景画のような美しい景色が、脳裏から離れない。

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『ローズマリーの赤ちゃん』を再度観て

2016年03月18日 | 1960年代映画(外国)
ブックオフに行ったら、『ローズマリーの赤ちゃん』(ロマン・ポランスキー監督、1968年)があった。
封切り当時、超話題作だったこの作品を観て、身の毛もよだつというか、心底ゾォーとした印象が焼き付いている。
しかし時を経て、内容がうろ覚えになってしまったので、再度観てみようと購入した。

俳優のガイと妻のローズマリーは、マンハッタンの古いアパートが気に入り、そこに住むことにした。
友人のハッチがこのアパートは以前から不吉な噂がたえないと話すが、二人は全然気に留めない。
ある日、隣人のローマンとミニーのカスタベット老夫妻が、ガイとローズマリーを夕食に招待した。
ローズマリーは、この夫婦をあまり好まなかったが、何故かガイは好意を抱き、
親切だが、少々お節介なこの老夫妻との付き合いが始まっていく。
ある夕食時、ミニーがデザートを持ってきてくれた。
ローズマリーは、まずくて嫌だったが、ガイがあまり勧めるので半分ぐらい食べたところで、急に目まいがし意識を失ってしまう。
そして、そのままローズマリーは悪魔と契りを交わす夢を見て・・・・

ローズマリーの妊娠による情緒不安定、ヒステリー性被害妄想。
そこまで悪く考えなくってもいいのにと思う程、何気なく物語は進んでいく。
しかし、グイグイと不安が募ってくる。
母親となる者として、母性本能が百パーセント発揮され、ローズマリーは胎児を庇ろうとする。
ミア・ファローの演技が真に迫ってくる。
そして、とうとう出産。

その結末は?
やはり、再度観てもゾォーとする余韻がいつまでも続く。
この映画の凄いのは、ローズマリーの赤ちゃんを見せないこと。
だから、ローズマリーが結果的に赤ちゃんを受け入れることが、痛々しく感動的である。

ミア・ファローの強烈な印象と共に、やはり第一級のサスペンス・ホラーとしての地位は揺らぎない作品だと確信する。

それにしても、この映画は呪われた作品となってしまったと思う。
ミア・ファローの当時の夫がフランク・シナトラ。
シナトラは、ミア・ファローがこの映画に出演するのに反対で、そのためだと思うが二人は離婚。
ポランスキーに至っては、あの有名な翌年の事件、シャロン・テート事件が起きる。
妊娠8ヶ月だった妻のシャロン・テートが狂信的カルト信奉者たちによって、腹部等を何度も刺され惨殺された事件である。

この映画のエピソードはまだあって、舞台のアパートはジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫婦が住んでいたことがある、ダコタ・ハウスで撮影でしたとか。
夫・ガイ役のジョン・カサヴェテスは、私が大好きな『グロリア』(1980年)などの大監督とか。

素晴らしさは他にもあって、クシシュトフ・コメダの音楽がまた凄くいい。
オープニングクレジットで流れるあの愁いを帯びた美しい旋律が、クロージングクレジットで聞くとなんと不気味に聞こえることか。
この曲の良さは、観た者しかわからないではないか。

YouTubeより、この曲を貼り付けてみた。
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『狂ったバカンス』を観て

2015年11月15日 | 1960年代映画(外国)
先日観た『太陽の下の18才』(カミロ・マストロチンクエ監督、1962年)のカトリーヌ・スパークに興味を惹かれ、
レンタル店で『狂ったバカンス』(ルチアーノ・サルチェ監督、1962年)を借りた。

離婚している中年男のアントニオは、プレイボーイ気取りで女に目がない。
野外劇場の観覧を途中で恋人たちと出た彼は、その後ひとり車を走らせて寄宿学校にいる息子に会いに行く。
その途中、エンストした車の若者たちにガソリンを分けてやるが、今度は自分の車がガス欠。
ガソリン・スタンド兼食堂まで何とかたどり着いた時、無賃飲食の若者(先程の仲間の一人)を運悪く気絶させてしまう。
仕方なく彼を海岸の別荘まで送ったアントニオはそこを去ろうとするが、車が砂にはまって動かない。
そこへ、ドライな少女・フランチェスカ(カトリーヌ・スパーク)が話かけてきて・・・・

キュートで天真爛漫なカトリーヌ・スパーク。
小悪魔的な魅力にあふれていて可愛い。
中年男のおっさん、アントニオはよせばいいのに「今頃の若者は・・・」なんて言いながら、彼らから立ち去ろうとしない。
本来、ティーンエイジャーには相手にしてもらえるはずもなくって、金づるとしか見られていないのに。
彼を小馬鹿にしたりしてやりたい放題の若者たちに、自分も仲間うちの気になって付き合うアントニオ。
それもそのはず、徐々にフランチェスカに恋心を抱いてしまっているから。
フランチェスカの方は、おちょくっておっさんを弄んでいるだけなのに、彼は段々と夢中になっていく。
もうこうなると、どうしようもない。
こんな時、結末は大体わかっているはずなのに。
案の定ラスト近く、夏の終わりの海辺での出来事も消え去って、一人浜辺に残されてしまったアントニオ。
その侘しさ、切なさがうら悲しい。

一人きりのアントニオを見て、なぜか『道』(フェデリコ・フェリーニ監督、1954年)のラストが記憶から甦る。
海岸でザンパノ(アンソニー・クイン)が、絶望的な孤独感に打ちのめされ嗚咽を漏らすシーン。
それと、設定は違うけど『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、1930年)も。
老教授がキャバレーの踊り子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)に恋をして、身を滅ぼしてしまうあの哀れさを。
それとも案外、『ロリータ』(スタンリー・キューブリック監督 、1962年)の方が心情としては近いかなと思う。

いずれにしても、思わぬ掘り出し物を見つけたような気にさせる作品だった。
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高校生のころ・6〜『太陽の下の18才』

2015年11月11日 | 1960年代映画(外国)
高校当時、レコードは貴重だったからほしい曲があっても、吟味を重ねた上でやっと一枚買うという状態だった。
だから、時が経ってから出る4曲入りコンパクト盤(シングルレコードの大きさの33回転数)が割安で、それをよく購入した。
そんな中の一枚に「思い出のイタリア映画集」があり、『太陽の下の18才(ツイストNo.9)』(唄・ジミー・フォンタナ)が入っている。

DVDレンタル店でタイトルをチェックしていたら、この『太陽の下の18才』(カミロ・マストロチンクエ監督、1962年)があった。
一度は観ておきたいと思いながら、当時から50年経ってしまった映画である。

若者三人(ニコラ、レロ、ナンニ)が船で、ナポリからイスキア島へバカンスにやって来る。
そして、島のカルロ、マッシモ兄弟たちのグループと合流。
彼らは短い休暇中に、女の子にアタックしアバンチュールを楽しもうとする。
レロはドイツ娘を射止めるためドイツ語を習おうとし、ナンニは島一番の美人をものにしようと彼女に接近する。
一方、予約したホテルでニコラが寝ていると、ニコル(カトリーヌ・スパーク)という女の子が部屋に入ってきた。
ニコラ・モリノとニコル・モリノの名が一字違いのため、ホテル側が同じ部屋を割り当ててしまったからである。
ニコルはニコラを追い出そうとするが、ニコラも自分の部屋だと主張して・・・・

美しい海をバックに、島で楽しむ若者の青春コメディ。
はち切れんばかりの太陽の下での話だから、もっとワクワクするような躍動感があってもよさそうだか、なぜか少し物足りない。
カトリーヌ・スパーク以外、青春真っ只中のピチピチしたギャルや青年が出て来ないせいだろうか。
物語りのエピソードも詰め込み過ぎで、もう少し省略すればすっきりするのになあと思う。
それでも、エンニオ・モリコーネの音楽が雰囲気を盛り立てたりして嬉しい。
特に、当時大ヒットしラジオからもよく流れた、ジャンニ・モランディの『サンライト・ツイスト(ゴーカート・ツイスト)』が懐かしい。
いい曲である。

(後に当時のメモを調べてみたら、この作品は高校3年の時に観ていた。しかし、観たという事も忘れてしまっていた)

下にYouTubeから『サンライト・ツイスト』を貼り付けてみた。
Go-Kart Twist / Gianni Marandi サンライト・ツイスト / ジャンニ・モランディ
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高校生のころ・2〜『007 危機一発(ロシアより愛をこめて)』

2015年09月04日 | 1960年代映画(外国)
高校に入学してみると、クラスには名古屋からの生徒が大半で中学からの知り合いは一人もいなかった。
それでもどうにか友達ができて、同級の一人から映画に誘われた。
ロードショウの『007 危機一発』(テレンス・ヤング監督、1963年)を観に行こうと言う。
今の題名で『007 ロシアより愛をこめて』である。
話が決まると早速、学校帰りに二人で名古屋の駅前まで出かけた。

秘密結社スペクタ-は、ソ連諜報部のクレッブ大佐が密かに同首脳部に転向したのを受けて、
イスタンブールのソ連総領事館にある新型暗号解読機レクターを手に入れる計画を立てた。

そのやり方は、領事館の女性暗号部員タチアナ・ロマノヴァをおとりに使って、
英国諜報部員のジェームス・ボンドを貶めながら、レクターを手に入れる方法である。
理由は、前回のドクター・ノオの敵討ちのために、ボンドには「怨念を込めた悲惨な死を与えよ」という訳である。
そして、英国諜報部員とソ連諜報部員の情死によって、英ソ両国には相手国の仕業と思わせ、
スペクタ-の陰謀とは気づかせない作戦である。

英国諜報部長Mのところに、同トルコ支局長ケリムから重要な情報連絡が入った。
ボンドが英国まで護送するという条件で、ソ連諜報部員・タチアナがレクターを盗み出すがどうか、という確認である。
何か罠の臭いもあるが敢て挑戦しようと、ボンドはイスタンブールに飛んだ・・・・

エキゾチックな女性がくねらせて踊るその身体に、映し出されるカラフルなクレジット。
オープニングのタイトルバックに、私は目が奪われもう最初からワクワクした。

レクターを盗み出すことに成功したボンドとタチアナ、ケリムの三人が、逃げながらオリエント急行に乗る。
それを目撃したソ連保安局のベンツも飛び乗る。
そのオリエント急行には、スペクターの刺客・グラントも乗っていた。
列車の動きと共に、後はハラハラドキドキ、手に汗を握る展開となる。
場面にのめり込んだまま最後までのノンストップ。
そして、ラストのベニスでのモーターボートのボンドとタチアナ。
エンディング・クレジットに流れる『ロシアより愛をこめて』(マット・モンロー唄)が何と言っても心地よい。

映画を観終わって、私は幸せな気分と満足感とで一杯になった。
と同時に、都会の人間は違うなぁ、田舎出の私が知らないハイカラな映画を知っていて凄いなぁ、と誘ってくれた友人を尊敬してしまった。

当時買ったシングル盤レコードの「マット・モンロー」と「ジョン・バリー楽団」の『ロシアより愛をこめて』の二枚が、今でも私の愛蔵盤となっている。
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