花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

人間の裸のこと

2024-08-03 | 日記・エッセイ


年齢を重ねれば重ねる程、心身ともに個体差が拡大する。熟練の数寄屋棟梁に、木材の材質差は年月を経たものほど大きいとかつて伺った。人もまた遺伝的素因に後天的な環境要因が加わり多種多様な表現型を呈する。その一方、天性の稟質はその後の行動原理を差配し、何処へ赴き何に関わるか、何に拘泥し妄執するか、何を截断し放下するか、価値志向性を終生支配する気がする。単純に申せば語弊があるが、三つ子の魂百迄である。
 高村光太郎は《触覚の世界》で、“当人自身でも左右し得ぬもの”や“この名状し難い人間の裸”と表現した。所詮、後から取り繕ってべたべた張り付けた飾り札などは、年経るとともに無残に剥がれ落ちる。望むことや望まぬこと、良きことも良からぬことも、いずれも自らの種を育てあげ見事に花開いた結果であるならば以て瞑すべしである。


小暑の京都を行く│廬山寺の源氏庭

2024-07-27 | 日記・エッセイ

廬山寺 源氏庭

7月某日、2024年度・日耳鼻京都府地方部会主催の「補聴器相談医更新のための講習会」に参加した。講習会終了後、京都御苑東に位置する京都府立医科大学図書館会場から足をのばし、梨木神社、紫式部邸宅址にある天台圓浄宗廬山寺を参拝した。廬山寺境内の源氏庭には今を盛りと州浜に植栽された桔梗が花開いている。濡縁に腰を下ろし時折吹き来る一陣の涼風に揺れる紫の花を眺めていると、酷暑の真夏只中であることをしばし忘れた。


石山月 / 月岡芳年「月百姿」
50 The moon and the helm of a boat --- Ishiyama moon / Stevenson J: Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001


走り梅雨

2024-05-31 | 日記・エッセイ


室内に花を生けた日から花の望診が始まる。盛りを過ぎた後に散りゆく花があれば、花弁は落ちずに末枯れる花がある。切花延命剤を用いても何時かはどの花も花弁や葉の色艶が褪せゆき、蕾が開いてもはるかに小さな花に留まる。これでお別れですと散る花からははっきりと告げられる。散らない花も黙したままに萎れ移ろう姿を繕うとはしない。その度に、散る花の様にも散らぬ花の様にもなれない、覚悟無き身を見つめられている気がする。



大宇陀の森野旧薬園に伺う│大和芍薬咲く

2024-04-29 | 日記・エッセイ

日本東洋医学会、奈良県部会企画の「森野旧薬園へ行こう~本草、薬業の歴史を刻んだ大宇陀!森野ラブ、生薬ラブになる遠足~」に参加した。森野旧薬園は、徳川幕府八代将軍吉宗の採薬調査に同行した森野賽郭翁が宇陀松山に創設、代々森野家が守ってこられた文化財史跡の薬園である。この薬園と松山本草をライフワークとなさっている大阪大学総合学術博物館・招聘教授、高橋京子先生の御教示を頂きながら、参加者一同は初夏の大宇陀の自然を満喫した。最後に宇陀松山会館では、大和芍薬の品種解析から栽培の御苦労、国内における生薬栽培の必要性と展望について熱い御解説を拝聴し、次いで第74回日本東洋医学会学術総会会頭、三谷和男先生の講義、栃本天海堂御協賛で煎じ手技解説とともに生薬の香溢れる中で試飲が行われた。


四月中旬に赤い花盛りをみせる樹齢300年の天然記念物、カエデ科の「花の木」


松山本草の大和芍薬図(森野旧薬園絵葉書に収載)│本年開花を迎えた赤芍薬


森野旧薬園に伺う前、森野吉野葛本舗西山工場の直売店「葛の館」の茶房でくずきりを頂いた。京都「鍵善良房」のくずきりの葛は森野吉野葛本舗製である。



宇陀市歴史文化館「薬の館」は名字帯刀を許された薬商、旧細川家住宅である。細川家の御血統は旧藤沢薬品、現アステラス製薬に繋がる。人参五臓圓、天壽丸の薬名を掲げた銅板葺唐破風附看板が往時の隆盛を偲ばせる。

  軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 
やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて

 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かヘり見すれば 月かたぶきぬ
(万葉集 巻第一)
*安騎の野:阿騎野、大宇陀

歳寒松柏│定子中宮と清少納言

2024-04-21 | 日記・エッセイ

新潟産の牡丹、春日山 令和六年の初花

 姫宮の御方の童女の装束、つかうまつるべきよしおほせらるるに、「この袙のうはおそひは、なにの色にかつかうまつらすべき」と申すを、また笑ふもことわりなり。「姫宮の御前のものは、例の様にては、憎げにさぶらはむ。ちうせい折敷に、ちうせい高坏などこそ、よくはべらめ」と申すを、「さてこそは、うはおそひ着たらむ童も、まゐりよからめ」といふを、なほ、「例の人のやうに、これなかくないひ嗤ひそ。いと謹厚なるものを」と、いとほしがらせ給ふも、をかし。「例の人のやうに、これなかくな言ひ笑ひそ。いと謹公なるものを」と、いとほしがらせたまふもをかし。
(第五段│「枕草子 上」, p28-36)
*袙のうはおそひ(上襲):童女が衵の上着るものを「汗衫」(かざみ)と称するを知らずに顰蹙を買ったのである。

《蛇足の独り言》中関白家が没落、里邸まで焼失した逆境下の長保元年八月、定子中宮は御産の為、中宮職三等官にすぎない大進生昌邸に行啓された。その日の払暁、左府道長は公卿を引率し宇治の家に向かうという移御の妨害に出る。家主生昌は、配流途中の播磨から秘かに入京した定子中宮の兄伊周を道長方に密告した男である。この段は、御主をお守りし一歩も引くものかと任ずる清少納言と、次から次へと心得違いを仕出かす生昌との応酬が描かれる。就中、感銘を受けるのは、御注進と言挙げする清少納言に向かい、笑い草にされた生昌の心情を推し量っておみせになる、定子中宮の寛恕で泰然たる御姿である。真に良質の高潔無比な貴人はどの様な境遇に遭うとも変節しない。歳寒くして然る後に松柏の彫むに後るるを知る。まさに躍如として、才華爛発の清少納言を心服させた定子中宮を拝する心地がする段である。

参考資料:
萩谷朴校注:新潮日本古典集成「枕草子 上」, 新潮社, 2000
藤原実資著, 倉本一宏編:角川ソフィア文庫「小右記」, 角川書店, 2023
川端義明, 荒木浩校注:新日本古典文学大系「古事談 続古事談」, 岩波書店, 2005

己を知る者の為に│清少納言

2024-04-16 | 日記・エッセイ


 御乳母の大輔の命婦、日向へ下るに、賜はする扇どものなかに、片つかたは、日いとうららかにさしたる田舎の館など多くして、いま片つかたは、京のさるべきところにて、雨いみじう降りたるに、
  茜さす日に向かひても思ひ出でよ 
   都は晴れぬながめすらむと
御手にて書かせたまへる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこそ、得ゆくまじけれ。

(第二百二十三段│「枕草子 下」, p135-136)

御乳母の大輔の命婦が日向に下り去るという時に、定子皇后様が御下賜になる幾つもの扇の中に、片方には日がうららかにさす田舎の館が多く描かれ、もう片方には都の然るべきところで雨がひどく降りしきるさまの絵があり、其処に、
  明るく晴れた日向で日に向かって思い出してほしい
   都では晴れぬ長雨を眺め涙にくれていることを
御自らしたためあそばした御姿を拝し、しみじみと心揺さぶられ敬仰の念を新たにした。
この御主君を見捨て申し上げ離れ行くなど、どうして出来ようか。(拙訳)

《蛇足の独り言》『枕草子』の中、清少納言が定子皇后様に「あはれ」という語を使った唯一の例と指摘されている段である。「さる君を見おきたてまつりてこそ、得ゆくまじけれ」の言葉に、終生仕え奉らむと決した清少納言の心意気を見る。生涯の御主と讃仰する御方に主従の縁を結べば、幽明境を異にした後の人生は、珠玉の追憶を胸に御主の名誉を守り御菩提を弔う余生である。そのあだになりぬる人の果ていかでかはよくはべらむと誹謗されようが、おのれの身の行く末など何を憂うることがあるだろう。王良は其の性を得たり、此の術固より已に深し。良馬は善馭を須つ。才気煥発の駻馬を御するだけの才智や品格、度量のかけらもない有象無象など、駿馬の骨さえ買う(真価を知る)資格はない。

参考資料:
赤間恵都子著:「歴史読み 枕草子 清少納言の挑戦状」, 三省堂, 2023
萩谷朴校注:新潮日本古典集成「枕草子 下」, 新潮社, 2000
松尾聡、永井和子校注:新編日本古典文学全集「 枕草子」, 小学館, 2007
池田亀鑑校注:岩波文庫「枕草子」, 岩波書店, 2012年
松尾聡, 永井和子校注:「枕草子 能因本」, 笠間書院, 2008


リングに上がれば│紫式部日記

2024-04-11 | 日記・エッセイ

中国安徽省産、鳳丹皮の薬用牡丹、令和六年の初花

ものもどきうちし、「われは」と思へる人の前にては、うるさければものいふことももの憂くはべり。ことにいとしも、もののかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすめり。
 それ、「心よりほかのわが面影を恥づ」と見れど、えさらずさし向かひ、まじりゐたることだにあり。「しかじかさへ、もどかれじ」と、恥づかしきにはあらねど、「むつかし」と思ひて、呆(ほ)け痴(し)れたる人にいとどなり果ててはべれば、「かうは推しはからざりき。『いと艶に、恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしき様して、物語好み、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、妬たげに見おとさむもの』となむみな人々いひ、思ひつつにくみしを、見るにはあやしきまでおいらかに、異人(ことひと)かとなむおぼゆる」とぞ、みな言ひはべるに、恥づかしく、「人にかう『おいらけもの』と見おとされにける」とは思ひはべれど、ただ、「これぞわが心」と慣らひもてなしはべる有様、宮のおまへも、「『いとうちとけては見えじ』となむ思ひしかど、人より異(け)にむつましうなりにたるこそ」とのたまはするをりをりはべり。くせぐせしく、やさしだち、恥ぢられたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし。

(小谷野純一訳注:笠間文庫「紫式部日記」, p160-162, 笠間書院, 2013)

わたしこそピカイチと人をこき下ろし鼻息荒い人は、キモくてうざいからものを言うのも億劫になる。確かに御尤もと申し上げるべき、その自慢げにぶら下げた能書き通りの人なんか滅多にいやしない。ひとり勝手な基準をもとにあんたはアカンと裁いているだけ。などとつらつら思いながら、本心とは真逆の顔をしれっと晒している自分もなかなかの玉やけど、しょうがないやんと独り言ち人と向かい合っていることもある。ほらあの有様と言われまいと努めるのは、何か言われるのが恥ずかしいからやない。また面倒臭い成り行きに帰結するのが御定まりやから。 
 そのような次第で、うすぼんやりに立ち振る舞っていたら、
「このような御方とは思いませんでしたわ。思わせぶりの恥ずかしがりや風で、なんとなく冷ややかで近寄りがたく、物語や風流をお好みになる様で、何かあれば歌をお詠みになり、人を人ともお思いにならず、嫉妬深く相手を見下しておられるお人だと、ほんとに嫌味な方ねと皆で噂しておりましたのよ。でもお会いしたら奇妙なまでおっとり風で別人かと思いましたわ。」と口々に言ってくるので、他人からお花畑の天然と侮られる、この事こそが恥ずかしいと忸怩たる思いで苦笑するしかない。
 こちらが掛け値なしの本性でございますとまやかし韜晦してきた仕業は、中宮様におかれても、
「とても気を許して接することは無理な人だと思っていましたが、他の人よりも親しくなりましたね」と仰せ頂く折々がある。中宮様からも一目置かれている、色々と癖のある優雅ぶる女房達からも、弾かれないようにすべきと考えているこの頃。-----気を置くからやない。只々色々と煩わしいから。(拙訳)

《蛇足の独り言》式部の言葉はおまゆうで内面は漆黒の闇、迎え撃つ女房の言葉もいけずな褒め殺しに溢れる。真に「おいらけもの」であったならば一日で居場所が消滅する、優雅な魑魅魍魎が跋扈する丁々発止の闘争社会である。