愛犬ランとシニアライフ

リタイア後初めての室内犬白いトイプードルココと暮らし今はココの娘ランと過ごすシニアライフを書いています。

小さな廃業

2017-12-25 20:51:37 | ひとりごと

兄が経営する小さな銭湯が今月末で閉めることになりました。

当時は港にいかりを下ろした漁船の船員が銭湯に入り、今川焼を食べ映画や大衆演芸を楽しんだので映画館や銭湯が5軒位あり銭湯も混んでいてお互いになじみになり背中を流しあったものでした。赤ちゃんの入浴時はガーゼにくるむこととか着替え方とかはお客さんの方法を見て覚えました。

父がこの土地に来たときは周辺は野原で家が2軒しかなかったそうです。そこで何故石屋から銭湯を始めたのかは聞いておりませんでした。

燃料は当時はおがくずと言って材木をひいたときに出る木屑をコンクリートの上に広げて乾かして燃していました。子供の頃は窯場のかまどにくべたおがくずの炎の中に芋を入れ出来上がりを待ちながら犬と父のそばにいるのが好きでした。

父は元は石屋でしたので庭には二宮尊徳の像や町の中にも父の彫った獅子の石像がありました。戦中銚子に落ちた焼夷弾で腕に火傷をしたと話していた記憶があります。怖いけど優しい父でしたがその最後には会えませんでした。私は父に見つからないように当時は職場に登山用具を置いて職場から山に行っていました。

ある年末、職場から南アルプスの北沢峠にテントを張り冬の甲斐駒や仙丈岳山に登り職場に直接戻った正月明けに父の訃報を聞き車で自宅に帰ったときは間に合いませんでした

母は毎日銭湯の番台にいるため夕食の支度は子供たちの仕事で土間にあるかまどは竹づつを吹いて火をおこす時代で時間に帰れないなら部活なんてやめろと父に言われたことが懐かしい。

父が自分で作ったつまみでゆっくり晩酌を楽しむそばで私も時々それをつまむのが好きでした。

母は夕方から銭湯の番台に座っていたので食事の支度をする母を見ていません。午前中は家族9人の大量の洗濯物をたらいに入れ洗濯板でごしごし洗っていました。今思うとなぜ手伝わなかったのかと後悔しますが本当によく働く人でした。銭湯は年中無休でしたので母はいつも番台に座っていて夕食を済ませた子供たちが番台を変わる1時間余以外は夜遅くまで働いていました。

私が風呂屋の娘として育った日々や結婚してから子供たちを連れてお風呂に通う路上で子供たちが柳の木に飛び跳ねていたころが懐かしく思い出されます。銭湯の廃業はいろいろなことが思い出されます。

80代になっても続けていたのはまだ銭湯に来るお客さんがいるからと・・・自営はやめる決心が大変だったと思います。

一つの幕が下ります。大学をあきらめて銭湯のあとを引き継いた兄、一つの時代が終わったという思いです。お疲れさまでした。