風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

杉の葉ひろいをした頃

2024年12月08日 | 「2024 風のファミリー」

 

晩秋の風は、さまざまな記憶の匂いがする。それは乾いた枯葉の匂いかもしれないけれど、郷里の黴くさい古家から吹き帰ってくる風のようでもある。赤く色づいた庭の柿や山の木の実や、夕焼けに染まった空の雲や、記憶の向こうに置き去りにされた諸々を、季節の風が遠くから運んできてくれる。
田舎で育ったから、田舎の記憶がいっぱいある。風が強く吹いた翌朝、杉林の道を歩いていくと、杉の葉が幾重にも重なって落ちている。いまでも、杉の枯葉をただ踏んで歩くのを躊躇してしまう。大きな炭俵にいっぱいに詰め込んで家に持って帰れば、それだけで母親を喜ばすことができたのだった。

ガスやプロパンのある生活ではなかった。かまどで薪を燃やして煮炊きをしていた頃、杉の枯葉は火付きがよくて、焚き付けとして重宝された。燃える時のぱちぱちと爆ぜる音、鼻につんとくる爽やかな匂い。とても勢いよく燃えて、それが火というものだった。
火は扱いにくく、太い薪や細い枯枝をくべながら火加減を調節することは、とても難しいことだった。大人がやっていると簡単そうなことが、子供にとっては難しく、私は挑戦するたびに出来なくてべそをかいていた。勢いよく火が燃える竈のある台所というところは、熱気とけむりと湯気が充満し、そのまま家が走り出しそうだった。

杉が実を付ける季節には、杉鉄砲というものを作って遊ぶ。米粒ほどの小さな杉の実を鉄砲の弾にするので、筒は細い笹竹の節のない部分を切り取り、心棒は古い自転車のスポークを自転車屋でもらってくる。仕組みは水鉄砲や紙鉄砲と同じで、竹の筒に杉の実を詰めて、心棒のスポークを勢いよく突くと、ぷちっと音がして杉の実の弾丸は飛び出していく。
手の平に納まるほどの小さな鉄砲なので、飛距離はあまりない。そっと友だちの近くまで寄ってから、いきなり顔や腕などを狙って撃つ。虻に刺されたくらいの痛さはあるので、そのうち撃ったり撃たれたりの合戦になる。杉の実が弾ける時は火薬のような匂いもするので、さらに闘争心が刺激された。

秋の運動会の季節には、杉の葉は入退場門のアーチになった。あおあおとした杉の葉を枝ごと、近くの山から切り取ってくる。2本の丸木のポールを地中に埋めてしっかり固定し、柱の周りを菰(こも)のように稲わらで包んで縄でしばる。この稲わらでできた軟らかい胴の部分に、杉の枝葉を隙間なく挿していくと立派な杉のアーチが出来あがる。さらに、その上に何らかの飾りをしたかどうかは記憶にない。ただの杉の葉が立派なアーチに変身してゆくのが驚きだった。たぶん小学生最後の秋のことだったと思う。
校庭のまん中には、白い石灰でラインが引かれ、そのまわりの応援席と父兄の観覧席には、稲わらがぎっしりと敷き詰められている。稲わらは農家の子どもたちが家から運んできたものだった。
空気が乾燥した秋晴れの一日、杉の葉のひんやりとした香りと、稲わらの温かくて甘い香りに包まれながら、広い校庭を子供も大人もみんな裸足で走った。




「2024 風のファミリー」




 


虫たちとの小さなサヨナラ

2024年12月02日 | 「2024 風のファミリー」

 

コオロギを飼ったりする、私はすこし変わった子供だったかもしれない。
畑の隅に積まれた枯草の山を崩すと、コオロギはなん匹でも跳び出してくる。それを手で捕まえた。尾が2本なのはオス、1本なのはメスだとした。いい声で鳴くのはオスの方だが、かまわずにごっちゃに飼った。
大きめの虫かごを自分で作り、枯草を敷き、キュウリなどの餌を与えた。

家の壁や雨戸などを突き抜けて聞こえてくる、コオロギの透きとおった鳴き声が好きだった。初めのうちは暗くならないと鳴かなかったが、慣れてくると昼間でも鳴いた。
小さな体の翅をいっぱいに立てて鳴くのを飽かずにじっと観察した。鳴き声にも微妙な違いがあり、虫にも言葉があるような気がしたが、それを聞き分けることはできなかった。

子供の私には、そんなにたっぷりと暇な時間があったのだろうか。食欲旺盛な蚕も飼ったし、模様が様々な蛾も集めてみた。虫ばかりではなく、メダカやドジョウも水槽で飼った。それぞれの生物の動きをじっと眺めているのが楽しかった。
まわりに、私のような子供はいなかった。やはり私は変わっているのか。そのような特異な性癖を、私は恥ずかしいと思うこともあった。

大人になってから、コオロギが日陰の虫ではないことを知った。中国では古くから、コオロギを闘わせる遊びがあったという。皇帝をも楽しませるコオロギは、立派な虫なんだと思った。恥じることなどなかったのだ。
また『枕草子』には、「蟲はすずむし。ひぐらし。てふ。松蟲。きりぎりす……」と出てくる。きりぎりすとは今のコオロギのことらしく、清少納言もお勧めの虫だったのだ。

松尾芭蕉の「むざんやな甲(かぶと)のしたのきりぎりす」のきりぎりすもコオロギのことらしい。芭蕉の時代もまだ、コオロギはキリギリスと呼ばれていたようだ。
また童謡の『蟲の声』では、「きりきりきりきり きりぎりす」と歌われていたきりぎりすが、後にコオロギに改編されたらしい。その頃に、コオロギという呼称が定着したのかもしれない。ああ、おもしろい虫の声、なのだ。

冷たい風が吹き始める頃になると、雲が高くなり空が遠ざかる。虫たちの声もか細くなり遠くなる。季節がまるごと遠ざかっていく感じがした。
私が飼っていたコオロギは翅が白くなった。人間も歳をとると髪が白くなる。老人はまもなく死ぬ。そんな単純な思考に追い立てられて、私はコオロギをまた元の畑に戻してやった。小さな秋の、虫たちとの小さなさよならだった。それは、ひとつの季節の終わりであり、少年の日との決別でもあったかもしれない。




「2024 風のファミリー」




 


カビの宇宙

2024年10月20日 | 「2024 風のファミリー」

 

秋の陽は釣瓶おとし、陽が落ちるのが早くなった。夜空の月も輝きを増して澄みきっている。夏から秋へと、昼間せめぎあっていた二つの季節が、夜にはすっかり秋の領分になっている。
久しぶりに、風が冷たいと感じて窓を閉めた。夏のあいだ開放していた窓を締めきると、どこからともなくカビ臭い匂いがしてきた。いかにも部屋に閉じこめられている感じがする。
この感覚は懐かしい。カビの匂いは嫌いではない。カビ臭い部屋にいると、特別な空気に包まれているような安堵感がある。こんな私の習癖を他人に話したら、きっと笑われてしまうだろう。

古い民家や寺院などを訪ねると、どこからともなくカビの匂いがしてくることがある。すると、体がすぐにその場の空気に溶け込んで、以前からそこに居たような落ちついた気分になってしまうのだ。
生まれた川の匂いを覚えているという、魚族の感覚に近いものだろうか。これって、子どもの頃の記憶と強く結びついているのかもしれない。
古くて小さな家に、家族7人が住んでいたことがある。家族はいつも狭い部屋でごっちゃになって暮していた。だからときどき、ひとりになりたかった。ひとりきりになれる部屋が欲しかった。

子どもの頃は、望んでも無理なことがいっぱいあった。無理なことばかり望んでいるようでもあった。そんな無理の中から、子どもはとっぴな夢をみたり、行動したりするのかもしれない。
ある時期、押入れの一隅を自分の隠れ家にしたことがある。閉めきると暗闇なので、そこで何かが出来るわけではない。ただ、じっとして自分の空間を確かめている。それは何かを避けて隠れていることかもしれなかった。
かくれんぼという遊びがある。自分を隠し誰かに発見してもらうという行動は、子どもが本来もっている欲求なのかもしれない。そこから生まれてくる快感こそ遊びの原点なのだろう。私の場合は、自分で隠れて自分で見つける、単なるひとり遊びのようなものだったけれど。

とにかく押入れはカビ臭かった。暗闇なので、聴覚と嗅覚だけの世界だ。外の気配に耳をすましながら、家族の干渉から逃れられていることを楽しむ。そのかたわら、ひたすらカビの匂いに耐えなければならない。
最初はカビの匂いが嫌だったが、ひとりの空間を守るための代償、のようなものだった。匂いは次第にぼくを包み込み、守ってくれるものになっていく。カビの匂いが、秘密めいた心地のいい匂いに変化していったのだ。
そこは暗くて小さな宇宙だった。カビの臭いは、ひと時の自由の匂いだった。

いま、ぼくの狭い部屋の隅に小さな物入れがある。扉を開くと、カビの匂いがとび出してくる。カビの住処はそこにあった。
とりあえず必要ないものとか、だけど大切なものかもしれないものとか、とりあえず捨てられないものとか、いつかまた使うかもしれないものとか、種々雑多なものを放り込んである。どんなものがあるのかもよく分からない。物がだんだん増えていくので、確かめるのも次第に億劫になっていく。それでますます整理ができない。
そこにはたぶん、ランダムに書きなぐったノートや古い日記帳がある。読み返すこともないような古い手紙がある。たくさんの写真やフィルムがある。録音テープや8ミリフィルムがある。父が使っていたドイツ製の蛇腹カメラがある。もちろん、私が使っていた一眼レフや交換レンズもある。それらは、デジカメの時代になって出番はなくなった。フロッピーディスクやMOディスクもあるだろう。ラジカセもあるだろう。使い古したカバンもあるだろう。そのすべてが、カビに包まれて眠っている。

いまや、カビの部屋にこもっているのは、私の抜け殻ばかりだ。彼らは私の干渉から離れて、自由に余生を楽しんでいる、と思いたい。そのうち、チーズのように熟成されるかもしれない。そうなれば愉しい。
久しぶりにカビの匂いに包まれて、妄想の殻がカビのように増殖していく。




「2024 風のファミリー」




 


彷徨いの果ては

2024年10月14日 | 「2024 風のファミリー」

 

近くの自然公園で、中年の男が野宿をしていたことがある。
男は大きな犬を連れていた。犬には首輪もリードもついていた。かなり長い期間だったと記憶する。夜はどこで寝ていたか、雨の日はどうしていたかなどはわからない。ただ昼間はいつも公園の草むらで犬とぼんやり過ごしていた。男はこの公園にすっかり居ついた風だった。
その間に犬はひとまわり大きくなり、毛並みも色艶もよくなったようにみえた。犬にはこの生活が合っているのかもしれなかった。それに比べて男の方は、色が浅黒くなって服装も薄汚れ、体も痩せて小さくなったみたいだった。

朝夕、男は犬をつれて公園内を散歩する。犬が嬉々として男を引っ張っている様子は、この公園に住みつく前にあったであろう、ごく平穏な日常生活がそのまま続いているようにみえた。男には家族も家もあり、そんな家をたったいま出てきた人が犬を散歩させている。そんな風にみえた。
すれ違うとき、男はなにげなく私の視線を避けた。私たちは公園でしばしば会うから、顔はお互いに見知っている。男の意識して避ける気配に私の方もよけいな意識をしてしまう。すれ違うとき犬に何か話しかけている男のしぐさも、その場をつくろう意識的な行動に思えてしまう。私は男の生活に干渉しようなどという考えはなかったが、無視もできなかった。

公園のなだらかな斜面を下ったところには、かなり大きな池がある。春から夏にかけては、亀や外来魚のブラックバスなどが水面近くを泳ぎ回っている。やがて秋が深くなると亀は冬眠し、魚は水底に姿を沈めてしまう。
冬のあいだは、鴨や鵜などの水鳥で賑やかになる。やがて春になると遊歩道の桜が満開になり、桜の花が散ると周りの雑木がつぎつぎに白い花をつける。
このような公園の四季を、男と犬がひとり占めしているように見えることがあった。ベンチがあり遊具があり、砂場があるように、男と犬がいつも公園のどこかを占めていた。

その頃、私は体調をくずして、心療内科からもらった安定剤と睡眠薬を服用していた。無気力になったり不安になったりした。いくぶんかは薬のせいもあったかもしれないが、仕事もできなくなり、収入もなくなって新しい仕事を探さなければならなくなった。
その後の仕事は長続きしなかった。仕方なく、わずかな年金と貯金で暮らす生活に切り替えることにした。車を手放し家財道具も整理して、家賃の安い公営住宅に移った。できるだけ生活の規模を小さくしなければならなかった。

ホームレスの一歩手前だった。車を手放したから、どこへ行くにも歩かなければならない。駅までの20分の道のりはずっと上り坂で、スーパーへ買い物に行くのもリュックを背負ってゆく。まるで山登りだ。歩けない老人になったら、姥捨山に捨てられたようなものかもしれないなどと、悲観的なことばかり想像した。
妻はこのような生活は不本意らしく、ときどき不満が爆発してしまう。私は自分が力不足だった結果だから、どんなことも甘受しなければならないと思った。

正直なところ、私はこのような生活でも満足だった。パソコンと書物に向き合う、ほとんど引きこもりの生活である。けれども、やっとこの自由な環境を確保できたというのが実感だった。
長いブランクののちに、若い頃に夢みた森にふたたび分け入ることができそうな期待。あいかわらず道も不確かな茫漠とした森であるが、いまは思うがままに森の中を歩いていけそうだという、それだけで満足なのだった。

公園の男が連れていた犬は、よその犬や人が近づくと激しく吠えた。この犬は家を守っているつもりなのかもしれなかった。公園の雑草の中には、私には見えないが犬とその主人の家があるか、あるいは家よりももっと大切なものがあるのかもしれなかった。それほど男と犬は公園にすっかり居ついていた。
だが、わが家の生活がそれなりに落ちついた頃、公園の男と犬は居なくなった。
その日から公園の風景も変わったように思えた。私の散歩はずっと続いたが、その公園でも私が落ち着ける場所は、まだ見つかっていなかった。




「2024 風のファミリー」




 


秋色の向こうに

2024年10月06日 | 「2024 風のファミリー」

 

母の命日で、天王寺のお寺にお参りに行ってきた。
お墓は九州にあるのだが、なかなか帰れないので、分骨して大阪のお寺に納めた。それで秋は母の、春は父の法要をしてもらうことになっている。
九州の秋がすっかり遠くなった。
最後に母に会ったのはいつだっただろうか。記憶力がすっかり衰えていると聞いていたが、久しぶりに会ったのに特に驚いたふうもなく、私のことはまだ覚えていた。母の口から自然に私の名前がでてきて安心した。

それは、なにげない日常の続きのようだった。過去のいくどかの再会の時や、いつだったかの母の病室を訪ねた時と同じだった。変わらずに保たれているものがあることに、そのときは安堵した。
何しに来たんやと母が言うので、会いに来たのだと応えた。久しぶりに会ったということを、母はぼんやり意識しているようなので、大阪から別府までフェリーに乗って、それからレンタカーを借りて来たことを説明した。

天気が悪いと船は揺れるやろ、と母が言う。昔の船旅を、母は思い出しているのかもしれなかった。いまは大きな船だから、ほとんど揺れることはないよと応えると、そうかと頷いた。
そんな会話の後すぐにまた、何しに来たんやとたずねてくる。会いに来たのだとこたえる。そのようにして、会話はいくども始めに戻ってしまう。母の記憶力は、やはり衰えてしまっているのだった。

今のことは今しかなく、それも瞬時に消えてしまうのだろう。会っている瞬間は、会っていることを自覚している。だが話したことも聞いたことも、記憶には残らずすぐに忘れてしまう。だから同じ会話が繰り返される。母にとっては、会った瞬間だけがずっと続いているのだろう。
私としては、幼い子供と会っているような気分になって、もはやこの人はかつての母ではなくて、生まれ変わった母なのだと思うことにした。

昔の話をした。私の祖母、すなわち母の母親の手の甲にはピンポン玉くらいの瘤があった。そのことを話すと母も思い出して、私の記憶力に驚いてみせた。古い記憶はまだ母の中にもしっかり残っているのだった。
母の実家は饅頭屋をしていたのだが、母が女学生だった頃の話をしだした。毎朝大きな鍋であんこ練りを手伝わされた。あんこは熱くなると飛び散るので、よく火傷をしたもんやという。そこには、もうひとりの母がいた。

2日目も同じような繰り返しだった。母にとっては昨日のことは何も残っていない。昨日はすっかり消えて今日がある。いくど会っても初めての再会となるのだった。
持参した腹太饅頭を、入れ歯を外したままの口でおいしそうに食べた。食べ物はおいしいのだと言う。だが食べたばかりの施設の食事で、何を食べたかは思い出せないのだった。
果物が食べたいというので、3日目はオレンジを持参して食べさせた。もういいと言うので控えていると、ふたたび食べたそうに手を伸ばしてくる。食べた記憶も味の感覚もすぐになくなるのかもしれなかった。

レンタカーにはカーナビがついていた。よく知っている道だが、とりあえず目的地だけを設定して走りだした。私は慣れた懐かしい道路を走りたいのだが、カーナビは新しい道や近道へとしきりに誘導しようとする。いくどもナビの声に逆らって走行するうち、かえって遠回りになったりした。
18歳で私は家を離れた。カーナビのように、母は私が生きる方向を指示することは一度もなかった。もしかしたら母にも、私に走って欲しい道はあったかもしれない。私は勝手に自分の道を走りだしたのだったが、あれは母に逆らっていたのかもしれない。

ときには母を憎んだり蔑んだりしたこともある。母の思いが解かりすぎる時は、わざと母の思いをはぐらかしたりしたこともある。母はカーナビのように親切でもなかったけれど、うるさくもなかった。幾日かかけて母が縫ってくれた夜具をチッキで送り、ボストンバッグをひとつ持って、私は初めての東京へと出ていったのだった。
そんな古い話もして、母に感謝をすればよかったかもしれない。だがそれはしなかった。

帰省して母の近くで過ごした最後の日、病院の母はとても眠たそうで、言葉もほとんど出てこなかった。
ばいばいといって手を振ると、布団の中でかすかに母の手が動くのが見えた。その手をとって握りしめたら、水に濡れたように冷たかった。その冷えきった手に囲われるように、わずかに浮いた掛布の隙間から、縫いぐるみや人形がいくつも、しっかりと抱かれているのが見えた。




「2024 風のファミリー」