神はどこにいるのか。神から離れ、神に見捨てられたときから、私たちは神を探し始めるのかもしれない。何かを捨てたとき、その存在に気付くように。
かつて、神は風の中にいたようだ。風は鳥が運んできたという。鳥は神の使いだと信じられていた。風は目に見えるものではなかった。ひとは神をただ感じた。神は山にも川にも、木にも草にも、存在した。森羅万象、あらゆるものの中で、古代のひとは神の恩恵を享受することができたようだ。
「天然の中に神の意思がある」と説いた思想家・内村鑑三は、「神の霊がときに教会の形をして現われても不思議ではない」とも言った。その理念を受けて造られたのが、軽井沢・星野の地に建てられた「石の教会」だった。建築家ケンドリック・ケロッグが自然と対話しながら創りあげた、きわめて独創的な教会である。
その天井は蒼穹であります。
その板に星がちりばめてあります。
その床は青い野であります。
その板に星がちりばめてあります。
その床は青い野であります。
それが、内村鑑三の「神の造られた宇宙」の姿だった。
そして建築家は、石の壁とガラスの天井で、その宇宙を構築した。陽光が降りそそぎ、星のように輝く石の壁には水が伝い流れ、まわりは緑の草木が茂る。天然の教会が完成した。
この教会には、十字架はない。建築家ケロッグが追求したのは、舶来ではない日本人の教会だった。日本という国はひとつの宗教にとらわれず、他国の宗教も受け入れる鷹揚さをもっていると、彼は考えた。自然界のあらゆるものの中に神を認めることができる、それが古代からの日本人の特質だと知っていた。
石の回廊をくぐり、ガラスの天井からそそぐ明るい陽光を浴びながら、大きな石の裂け目に深海のような青空を望む。そこは地上でもない空中でもない、むしろ澄みきった水中に近い、不思議な空間にいるようだ。
五感が快く包まれ、やがて解放される。その瞬間は、風に似た神の気配に触れているようでもあった。それは予感のようなものかもしれない。いつかどこかで神と邂逅するかもしれないという、淡い歓びのような感覚だった。
石の回廊をくぐり、ガラスの天井からそそぐ明るい陽光を浴びながら、大きな石の裂け目に深海のような青空を望む。そこは地上でもない空中でもない、むしろ澄みきった水中に近い、不思議な空間にいるようだ。
五感が快く包まれ、やがて解放される。その瞬間は、風に似た神の気配に触れているようでもあった。それは予感のようなものかもしれない。いつかどこかで神と邂逅するかもしれないという、淡い歓びのような感覚だった。
「2024 風のファミリー」