その木造の小さな教会は、つねに開放されている。
訪れる人々は黙って入り、しばし木製の長いすに座り、薄暗い室内に目を凝らす。
壁も窓も、屋根を支える梁も、素朴な祭壇も、すべて木でできている。木から木へと森を抜けてきた風が、そのまま教会の建物を吹き抜けても不思議ではない。
風も人も、そして神ですら、自由に行き来する。
老成した神は、あえて手を差し伸べることはしない。ただ黙って受け入れるだけだ。そこでは、人は知らないまに神とすれ違っているかもしれない。
今から100年以上も昔、ひとりのカナダ人宣教師が軽井沢をはじめて訪れた。彼の名前は、アレキサンダー・クロフト・ショー。
彼はこの地の風土に魅せられ、軽井沢で最初の別荘を建て、最初の教会を建てた。
彼は、その数々の功績により「軽井沢の恩父」と呼ばれている。
その古い教会を源流とするかのように、そこから街の賑わいは南へと流れるように延びている。
神とはすれ違ったまま、ぼくは幸せな気分で教会を出た。
薄暗い林のそばの、人がほとんど通らない裏道を抜けると、室生犀星の旧宅がある。以前にも訪ねたことがあるが、今回もなんとなく立ち寄ってしまった。
親戚のおじさんのように、角ばった無愛想な犀星の顔が浮かんだ。おじさんがいつも庭を眺めていたという、板張りの縁側に座って犀星の気分になってみた。
彼が愛した庭苔は、今もきれいに庭を覆っている。
かつて、その庭の一角に雨ざらしの木の椅子があった。眠っているのか瞑目しているのか、じっと目を閉じて座っているのは、若い詩人の立原道造だった。「彼はいつも眠そうだった」と犀星の目には写っていた。
自転車に乗ってやってきた若い女性が、ためらうように木戸から入ってきた。
ショートパンツから伸びた白い脚が、やわらかい絨毯のような苔のあいだを軽やかに縫った。
その白い脚を追って、犀星ならその屈折した文体で、ひとりの女性を艶っぽく生き生きと記録しただろう。
道造なら、過ぎた日のいつかの夢のような風景にして、美しい詩を書いたかもしれない。
ぼくはといえば、長い髪を追って、ただ自転車の風になりたかった。
自転車の風にもなれなかったぼくは、とぼとぼと通りの人ごみに混じって歩いた。
とつぜん「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が頭に浮かんだ。ポール・ヴァレリーのそれではなく、堀辰雄の『風立ちぬ』の中の言葉としてだった。
白い脚の残像に、小説のあるシーンが誘発されたのかもしれない。
次第に結核が悪化していく若くて美しい恋人。
とつぜん風が立ち、彼女が描きかけの画架を倒してしまう。まだ乾ききっていない絵の具にくっついた枯葉を、彼女は細い指でていねいに取り除いていく。必死で生きたいと願う若い命の残像でもあった。
風の流れのように、川の流れのように、夏のあいだだけ訪れる人たちで、街の通りは賑わっていた。
蕎麦を食べるために、店先で30分並び、注文してから15分待った。食べるのは1分で充分だった。
木の神の恩寵は、必ずしも合理的ではないのだ。生きるため、空腹を満たすためには、ときには現代の神と妥協しなければならないのだった。
蕎麦食いぬ、いざ生きめやも!