つれづれなるままに

日々の雑記

建物めぐり 文翔館 山形県郷土館

2024-11-29 13:07:28 | 







山形県郷土館(愛称「文翔館」)は、1916年(大正5年)に建てられた英国近世復興様式の建物で、1975年(昭和50年)まで県庁舎及び県会議事堂として使用されていました。
1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定され、1986年(昭和61年)から10年の歳月をかけて当時の工法を元に忠実に復原工事が行われ、現在は山形県郷土館として無料公開されています。












中央階段室
月桂樹のステンドグラスは当時のもの。











正庁(現在で言えば講堂にあたる)







中庭





いろいろなお部屋がありました。





天井の漆喰飾りにも山形県特産の
サクランボと紅花が施されています。





二階にはバルコニーがあり、出られます。
山形駅方面の景色。




隣にはまた違った雰囲気の旧県会議事堂があります。







バルコニーから見た時計台。
時計台は国内で稼働しているものとしては
札幌の時計台についで2番目に古いもの。




旧県会議事堂への通路。




文翔館は山形駅からも近く、入場無料です。
受付で案内をお願いするとガイドさんがつきます。
教育資料館も近くにあります。


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建物めぐり 教育資料館(山形県立)

2024-11-27 10:56:55 | 




  ルネサンス様式を基調として明治11年に創設された山形県師範学校の校舎は、昭和48年に国の重要文化財に指定されました。その後、教育資料館として県の教育史関係の資料を展示しています。江戸時代の寺子屋や藩校から戦後の新しい教育まで、各時代の教科書や当時の授業風景が再現され、教育と教員養成の歴史がテーマ毎に紹介されています。





明治時代の息吹を感じるルネサンス様式の美しい建築です。青い塔に赤い瓦屋根、ルネサンス様式を基調としたヨーロッパ調の美しい建物は後に重要文化財、そして近代化産業遺産に認定され、現在では貴重な歴史的建築物として一般公開されています。






寺子屋です。リアルさがありました。





割り算九九(?)の表。
高度な勉強をしていたのですね!




紅花のドライフラワー。
圧倒されました。




廊下。何か感じるものがありました。




戦後の教育風景。




建物の見学のみかと思っていましたが、
教育現場の歴史に感じ入るものがありました。
今はタブレット(?)
重みのある学びも必要かと。

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建物めぐり 上杉伯爵邸

2024-11-22 15:04:37 | 



10月に行きました「建物めぐり」の続きです。
山形に入り米沢市にきました。


 上杉伯爵邸は、明治29年、元米沢城二の丸跡に上杉家14代茂憲(もちのり)伯爵邸として建てられました。当時は敷地約5,000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅でした。しかし、大正8年米沢大火で類焼し焼失。大正14年に、銅板葦き、総ヒノキの入母屋づくりの建物と、東京浜離宮に依って造園された庭園が完成いたしました。
 設計者は中條精一郎、施工は名棟梁江部栄蔵による作品です。かつて、鶴鳴館(かくめいかん)と称され、皇族の御宿所ともなった、文化財的価値のある邸です。平成9年には、国(文化庁)による登録有形文化財に登録されております。














中庭も素敵です。





冬支度の雪つりです。
竹でできています。




上杉鷹山公にも雪つりです。




上杉伯爵邸ではお食事もいただけます。
昼食に献膳料理をいただきました。

献膳料理とは、お殿様に食べていただくにふさわしい料理という意味を込めて
命名いたした、伝統の郷土料理のことです。
ランチメニューの定番となっています。




季節の冷汁(ひやしる)







時間に追われ、あわてて上杉神社をお参りしました。













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紅葉をもとめて② 竜神大橋 袋田の滝 月待の滝

2024-11-21 11:10:22 | 



2日目は一日小雨の降るなかの観光でした。
竜神大橋の橋の上より。







袋田の滝。
以前来た時より、だいぶ観光地化されていました。
観瀑台への道は光のトンネルで、少し目が疲れました。














現代風な観瀑台




月待の滝
滝を裏側から見ることができます。





駐車場にあった奥久慈リンゴの木。





今回の旅は、参加しやすいこともあり多人数でした。隣席の年配の女性のお話がご家族の事ばかり。(良いお話ではなく、愚痴?)一期一会の出会いです。楽しい会話を楽しみたいと思いました。
今年最後の旅をこの旅で終わりにしたくないので、12月に星野リゾートの旅を申し込みました。

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紅葉をもとめて① 鑁阿寺 金蔵院 塩原

2024-11-19 10:37:26 | 


(竜神大橋)

11月14,15日 紅葉の言葉に誘われて
栃木県と奥久慈方面の旅に参加しました。


インスタグラムで有名になった佐野市にある金蔵院の紅葉。
まだまだ紅葉には程遠い風景でした。




清瀧山 金蔵院(こんぞういん)





紅葉が進んでくると…




(ネットよりお借りしました)


足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)は大銀杏の黄葉で有名です。
こちらも少し早かったです。














宿のある塩原へ。
途中の山々の紅葉はきれいでした。

紅の大橋











翌朝 宿の窓から。
お天気は小雨のようです。






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建物めぐり 福島県迎賓館 旧高松宮翁島別邸 御薬園

2024-11-18 12:51:05 | 





旧高松宮翁島別邸(福島県迎賓館)は、大正天皇第三皇子・高松宮宣仁親王殿下が、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下の御保養のために、大正11年に建設されたものです。
当時、既に天鏡閣はあったものの、高松宮宣仁親王殿下は御還暦前の慰子妃殿下を気遣われ、自然の景観を庭園に見立てた純日本風のたたずまいを有する別邸を1年余りの歳月をかけて完成させました。(ネットより)


詳細は下記サイトより

福島県迎賓館(旧高松宮翁島別邸) - 雅へのいざない

天鏡閣より5分ほど歩くと、移築されたという門が見えてきます。




内部は華美ではありませんが、女性のお部屋らしい雅な作りです。








お風呂は総檜作り。





東屋から見た猪苗代湖。





東屋から見た別邸。







会津松平氏庭園である「御薬園」へ。





お茶屋御殿





阿弥陀寺へ向かいましたが、
だいぶ暗くなってしまいました。




芭蕉句碑
ものいえば唇さむし秋の風





阿弥陀寺より近い渋川問屋さんで夕食です。
郷土の料理を堪能しました。










明日は山形へ向かいます。

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建物めぐり 天鏡閣 猪苗代町

2024-11-10 14:43:33 | 



天鏡閣

天鏡閣は福島県猪苗代町にある旧有栖川宮家・高松宮家翁島別邸。
天鏡閣の詳細は公式ホームページをご覧ください。

国指定重要文化財「天鏡閣」公式ホームページ





入室して先ずはお茶をケーキをいただきました。





先方のお部屋を見ながら。





気品のあるルネッサンス風洋風建築です。
大理石でできているマントルピースに惹かれました。
26個あるそうです。
















私たちが入室した側から。








裏道を通って旧高松宮翁島別邸(福島県迎賓館)へ向かいます。
猪苗代湖が見えます。





素敵な木を見つけました❣




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建物めぐり 蛇の鼻御殿 会津

2024-11-09 11:18:35 | 




蛇の鼻御殿




花と歴史の郷 蛇の鼻 すりばち池


蛇の鼻とは、福島県本宮市にある広大な公園です。

◆蛇ノ鼻地名の由来
平安後期に起こった大乱、前九年の役で源義家がこの地で交戦し、その際四方の敵に放った矢が 花の様に見えた事から、「矢ノ花」と呼ばれる様になった。その後、玉井村(現大玉村)と本宮町(現本宮市)に分割された際、 玉井には「矢ノ花」と言う地名が残ったが、本宮ではその地名と区別する上で、大名倉山に伝わる 大蛇伝説の「蛇」からとって、初めは「蛇ノ花」と呼ばれていたが、後世になって山が切れて盆地に落ち込む場所を 「鼻」と呼ぶ事から、今日の「蛇ノ鼻」になったと言う。(ネットより)


蛇の鼻御殿とは、福島県本宮の豪農伊藤 弥の邸宅として、1904年(明治37年)に建てられた。建物の材質の中には、現在では入手困難とされるものもある。玄関周りの巧妙精密な彫刻は、二本松市で200年以上続く橋本仏具彫刻店の初代(父)とその子(兄と弟)により彫られたもので、日光東照宮にみられる彫刻を参考にして製作された。また、各部屋の襖を飾る作品は、狩野派を主に、時代に名を残す画家たちにより描かれており、ほか伊藤博文や、三条実美、木戸孝允の扁額なども見ることができる。
蛇の鼻御殿は平成8年(1996年)12月、文化財保護法により登録有形文化財として登録されました。登録有形文化財は築後50年以上を経過し、造形の模範となり再現が困難な建物が対象とされています。(ネットより)



玄関の天井








老松の間





木戸孝充の扁額







黒柿の板戸と階段







階段の彫刻





昼食は猪苗代湖近くの「いわはし館」で祝言そばをいただきました。







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田中一村展

2024-11-02 15:17:11 | 日常あれこれ

10月30日雨上がりの午後、東京都美術館へ。
田中一村展はやはりとても混んでいました。
人と人の間より絵画を覗き込む状態でした。




田中一村とは
明治41(1908)年,栃木県に生まれる。幼い頃から画才を発揮し,7歳の時,父の濔吉(号稲村、稲邨)より「米邨」の号を与えられる。

大正15年東京美術学校入学後,わずか2か月余りで中退,その後南画家として活動する。第19回青龍展に「白い花」を出品入選するが,その後中央画壇とつながりをもつことはなかった。

昭和33年50歳で単身奄美大島に移住。紬工場で染色工として働き,蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し,亜熱帯の植物や動物を描き続け,独特の世界をつくりあげた。

絵描きとして清貧で孤高な生き方を通した一村は,昭和52(1977)年69歳でひっそりとだれにも看取られずにその生涯を閉じた。(AMAMI PARKより)










NHK 東京都美術館の案内より
田中一村展 奄美の光 魂の絵画 
本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。
自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。
本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。



晩年の作品に興味がありました。



奄美の海に蘇鉄とアダン(ネットより拝借)




アダンの海辺(ネットより拝借)




不喰芋(くわずいも)と蘇鉄


奄美に行く前の作品 「白い花」と「秋晴」 (ネットより拝借)




白い花(ネットより拝借)





秋晴 (ネットより拝借)



晩年の作品に惹かれて訪れましたが、
この「秋晴」も印象に残りました。


sumau というサイトの絵がきれいです。
https://sumau.com/2024-n/article/2373

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