先日、横波をくって、転覆したフェリーですが、疑問点がいくつか浮かんでいます。
積荷が片寄ったためといいます。常識では傾きを加減するために、積荷は固定しているはずです。
構造上から見て、トップヘビーに見えるのだが、簡単に横波で転覆するところを見ると、船底のバラストタンクが空だったのではないかということです。
次は、転覆後の対応です。人命救助が何よりも優勢されるのは当然ですが、燃料タンクからの重油の漏洩の心配です。
テレビを見ていて、重油の流失と判断して、行動の遅さにあきれていました。
若いとき、50年前になるのですが、タンカー船運行会社に勤務していた私は何度となく、油漏れに泣かされ、また、その対策を経験しました。
オイルヘンスという、流出を防ぐものが販売されるようになり、タンカー船は常備するのが常識にさえなったはずです。
それが一向に届かないで、海面に油の帯がテレビでも認められました。
九州の船会社故の遅さは理解できても、各港には船会社の代理店が存在して、運行の助けをしているのです。
そこが無知なのか、本社が遅いのか、ただ、傍観しているようにさえ見えました。
地元の漁師野中には低引の網を重油で使い物にならなくっなった人、量に出られない船と被害は益々、広がっています。
私が経験したもっとも大きな仕事は、港の港外で軽い座礁を起こし、船底に穴があいたまま、入稿した船でした。
海難が専門の私ではないのですが、タンカー船でさまざまな事故に、指揮を執ったことが、他地域にまで知られていたのでした。
私のあてに、船会社からのSOSが入り、何とか助けて欲しいというのです。
湾内の200トン程の小船で接近しました。碇を下ろして静止している船の横には既に、重油が流れ出していました。
来ていた代理店に、命令をだして、まず、潜水夫を動員。
次ができるだけ長いロープを何本もと、むしろ(こもとも言います)と木材長さ30センチに切った角材、それにソーダスト即ち、おがくずを10俵を速やかに手配せよでした。
神戸が本社の大手の代理店でしたから、私の指示を短時間に成し遂げました。
外国船(船籍はギリシャ)でしが、船長も航海士もただ、私任せでしたが、何をするのかも不思議だったようです。
代理店からボートを二隻と本線に積んであるボートも下ろしての作業です。
時期は冬でした。船の半分油の漏れ出した部分の周囲に大きなロープの輪を作りました。
浮きの働きを30センチの角材を結びつけることでロープが水面に浮かびます。
その内側にむしろを浮かすのです。それが出来上がって初めて、何をしようとしているのか代理店も船長たちも理解したようでした。
ボートを輪の中に浮かばせて、そこからはおがくずを海面にまくのです。
水分と同時に重油をしっかり吸着するのです。
そして、手鍵でそれを小船に引き上げるのです。
その作業は第一段階で、波が来るたびに重油がぷかぷかなかれ出すのを止めねばなりません。
反対側には手配した200トンのタンカーを横付けして、潜水夫に船底の穴の程度を調べさせました。
人が楽に出入りできる穴と知りました。
機関長から穴の開いた重油タンクの残量を聞いて、約100トンだといいます。
こちらから4インチのホースをタンク内の水面部分に固定させました。
そして、重油を吸い取るつもりでした。ところが、こちらの船員からクレームです。常に、油を送り出す仕事であって、吸ったことはないというのです。
過去に、その荒療治を経験済みの私の説明で、ポンプを逆回転するのです。
海水と重油を同時に吸い込みますから、丁度、作業が終了するころには、こちらのタンクが満タンになっていました。
夕暮れからはじめた作業は夜を徹して行われ、夜が白々と明けるころに終了でした。
反対側のおがくずを回収する作業も、こちらの船員と私で、作業手順を教えねばなりません。
父親譲りの一張羅のオーバーコートも重油で泥んこです。
途中で何度か、船長の用意してくれたコーヒーでは寒くて、途中から酒とウイスキーで皆体を温めるのでした。
終了後に笑ったのは、船長が世界を回ってこんな人たちに巡り合えたことを感謝してくれたことでしたが、最後に、「コートのクリーニング代はこちらに請求して下さい」でした。
重油のこびりついた洋服は使い物にならないのでした。
名古屋の私は一躍、日本の港では知らないものがいないぐらいに、なりました。
海難専門の会社からの電話が、事故が起こると来るようになりました。
門外漢のタンカー船の運航が主な会社の一社員にです。
あるときは港に入れないで、港外待ちの外国船で、燃料切れのSOSが入りました。
これは本業ですが、給油より、製油所からの運送が主な仕事なのですが、海難からの私の指名なのでした。
天候は荒れ模様で、お気の作業は命がけです。とにかく数百トンの船を横付けにして給油です。
30才前の若さは、怖いものなしに何でも挑戦したものでした。
積荷が片寄ったためといいます。常識では傾きを加減するために、積荷は固定しているはずです。
構造上から見て、トップヘビーに見えるのだが、簡単に横波で転覆するところを見ると、船底のバラストタンクが空だったのではないかということです。
次は、転覆後の対応です。人命救助が何よりも優勢されるのは当然ですが、燃料タンクからの重油の漏洩の心配です。
テレビを見ていて、重油の流失と判断して、行動の遅さにあきれていました。
若いとき、50年前になるのですが、タンカー船運行会社に勤務していた私は何度となく、油漏れに泣かされ、また、その対策を経験しました。
オイルヘンスという、流出を防ぐものが販売されるようになり、タンカー船は常備するのが常識にさえなったはずです。
それが一向に届かないで、海面に油の帯がテレビでも認められました。
九州の船会社故の遅さは理解できても、各港には船会社の代理店が存在して、運行の助けをしているのです。
そこが無知なのか、本社が遅いのか、ただ、傍観しているようにさえ見えました。
地元の漁師野中には低引の網を重油で使い物にならなくっなった人、量に出られない船と被害は益々、広がっています。
私が経験したもっとも大きな仕事は、港の港外で軽い座礁を起こし、船底に穴があいたまま、入稿した船でした。
海難が専門の私ではないのですが、タンカー船でさまざまな事故に、指揮を執ったことが、他地域にまで知られていたのでした。
私のあてに、船会社からのSOSが入り、何とか助けて欲しいというのです。
湾内の200トン程の小船で接近しました。碇を下ろして静止している船の横には既に、重油が流れ出していました。
来ていた代理店に、命令をだして、まず、潜水夫を動員。
次ができるだけ長いロープを何本もと、むしろ(こもとも言います)と木材長さ30センチに切った角材、それにソーダスト即ち、おがくずを10俵を速やかに手配せよでした。
神戸が本社の大手の代理店でしたから、私の指示を短時間に成し遂げました。
外国船(船籍はギリシャ)でしが、船長も航海士もただ、私任せでしたが、何をするのかも不思議だったようです。
代理店からボートを二隻と本線に積んであるボートも下ろしての作業です。
時期は冬でした。船の半分油の漏れ出した部分の周囲に大きなロープの輪を作りました。
浮きの働きを30センチの角材を結びつけることでロープが水面に浮かびます。
その内側にむしろを浮かすのです。それが出来上がって初めて、何をしようとしているのか代理店も船長たちも理解したようでした。
ボートを輪の中に浮かばせて、そこからはおがくずを海面にまくのです。
水分と同時に重油をしっかり吸着するのです。
そして、手鍵でそれを小船に引き上げるのです。
その作業は第一段階で、波が来るたびに重油がぷかぷかなかれ出すのを止めねばなりません。
反対側には手配した200トンのタンカーを横付けして、潜水夫に船底の穴の程度を調べさせました。
人が楽に出入りできる穴と知りました。
機関長から穴の開いた重油タンクの残量を聞いて、約100トンだといいます。
こちらから4インチのホースをタンク内の水面部分に固定させました。
そして、重油を吸い取るつもりでした。ところが、こちらの船員からクレームです。常に、油を送り出す仕事であって、吸ったことはないというのです。
過去に、その荒療治を経験済みの私の説明で、ポンプを逆回転するのです。
海水と重油を同時に吸い込みますから、丁度、作業が終了するころには、こちらのタンクが満タンになっていました。
夕暮れからはじめた作業は夜を徹して行われ、夜が白々と明けるころに終了でした。
反対側のおがくずを回収する作業も、こちらの船員と私で、作業手順を教えねばなりません。
父親譲りの一張羅のオーバーコートも重油で泥んこです。
途中で何度か、船長の用意してくれたコーヒーでは寒くて、途中から酒とウイスキーで皆体を温めるのでした。
終了後に笑ったのは、船長が世界を回ってこんな人たちに巡り合えたことを感謝してくれたことでしたが、最後に、「コートのクリーニング代はこちらに請求して下さい」でした。
重油のこびりついた洋服は使い物にならないのでした。
名古屋の私は一躍、日本の港では知らないものがいないぐらいに、なりました。
海難専門の会社からの電話が、事故が起こると来るようになりました。
門外漢のタンカー船の運航が主な会社の一社員にです。
あるときは港に入れないで、港外待ちの外国船で、燃料切れのSOSが入りました。
これは本業ですが、給油より、製油所からの運送が主な仕事なのですが、海難からの私の指名なのでした。
天候は荒れ模様で、お気の作業は命がけです。とにかく数百トンの船を横付けにして給油です。
30才前の若さは、怖いものなしに何でも挑戦したものでした。