ピーナッツの唄

毎日の出来事や、スポーツ観戦、読書や映画等の感想を中心に、好奇心旺盛に書いています。

昭和の森公園で

2008-06-06 18:30:23 | 独り言
午後から千葉市の最大の公園、「昭和の森公園」にカミさんと出かけた。

お目当ては下夕田池の「スイレン」、未の刻(午後2時)に咲くところからヒツジ草ともいう。
結果はたしかに一部は咲いていたが、まだ大部分はつぼみでした。

その花の一部

          

          

そして隣接の湿地帯の花ショウブはほとんどがつぼみ。一部が綺麗に咲いていました

          
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林家三平師匠のこと

2008-06-06 12:14:34 | 独り言
  昭和は遠くなりにけり NO5 

昭和の爆笑王と言うならば榎本健一さん(エノケン)だろう。(映画や舞台に大活躍だった)。終戦後には横山エンタツ、花菱アチャコの両漫才コンビがいた。さらに舞台に出てきただけで笑いを誘ったのが、柳家金語楼さんだった。

そしてTVが持て囃された時期に出てきたのが、林家三平師匠だった。ラジオ・テレビ番組の司会などで人気となり、32年に二つ目、33年に真打となる。元々林家正蔵の名跡を継ぐべき落語家だったが、高座でも落語から脱線してしてしまう。

今度は右側の人だけ笑ってとか、遅れて席に着いたお客に「お待ちしてました」などと声を掛ける。時流に乗ったコントで場をつないでいく。そして笑いの渦のなかで「どーもスイマセン」だった。
昭和43.4年頃、新宿末広亭の高座を見たことがある。企業の女子職員の多い職場の懇親会だ。2階席に陣取った多くの若い女性たちを見て、たっぷりと愛嬌を振りまいてくれたことを思い出した。

「爆笑王」「神風タレント」と呼ばれ、「よしこさーん」「どーもスイマセン」のセリフで日本中を席巻。しかし林家三平の名が売れすぎて、父の名跡は継がなかった。現在のTVで活躍したあと、あっという間に消える、一発屋のタレントと違い長い間人気が続いた。そして54年1月脳出血で入院、10月に高座に復帰するも、55年に肝臓がんで再入院、死去した。

実に人柄にも優れた人物で、落語協会のまとめ役を務め、若い人たちの面倒もよく見たそうである。そして残された子どもたち、長男のこぶ平が林家正蔵を継ぎ、次男のいっ平がいずれ林家三平の名を継ぐ。

ふたりの子息たちに、あの輝かしい落語の一時代を築いた「林家三平師匠」に追いついて欲しいものだ。

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