西やん中洲にいます。

西やん66歳、日々の出来事独り言

何もない日369 【65年前に生まれて】

2022-09-25 20:44:46 | 何もない日
こんばんは。

今日も、「何もない日」でした。

【65年前に生まれて】
私は、65年前に福井県福井市に生まれました。
家のすぐ近くを九頭竜川という大きな川が流れていました。

私は、6男3女の一番下、9番目に生まれました。
生まれたところは福井市内に近くはあるのですが、周りは
田んぼばかりのとことで、約100件ほどの集落で、農家
の家が多いところです。

私が9番目だということで、すごく貧乏な家庭だったと思
います。私が生まれた頃は小さな平屋の家に住んでいました。

母はその頃は、その集落にあった小学校の分校で給食のおば
さんをしていました。その分校には幼稚園もありました。
ただ、1・2年で1学級、3・4年で1学級という複式学級
でした。同級生は私を含めて9人。男6人女3人の同級生で
した。

子供の頃の記憶では、やはりというかずっと上の兄のおさが
りばかりを着ていたこと。なので、つぎはぎだらけで。
もう一つ、記憶に残っているのは、掛け算の九九を習った時
の宿題で、家に入る前に何の段だったかな、3回言ってから
入りなさい、という宿題があって。
その当時も母は一人で分校の給食のおばさんをしていて、そ
れで、私は幼稚園の教室の扉の前で掛け算の九九を3回言っ
て教室に入りました。そこで母の仕事が終わるのを待つのが
私の日課だったからです。

その後、九頭竜川を渡った対岸にあったコンクリートブロッ
クを製造する会社の事務所兼住宅に家族みんなで引っ越しま
した。ただ、その頃には長男や次男は中学を卒業して家を出
て中学を卒業して働いている頃でした。
でも、本当はそこは別な小学校に通う校区だったのですが、
分校までの距離は橋を渡って500mくらいだったでしょう
か、何故か転校していませんでした。そのまま分校に通いま
した。
今考えると、あの頃もいじめなどあったとは思いますが、分
校で同級生9人。けんかの記憶もなく、いじめの記憶も1度
ありましたが、相手と身長が逆転したら解決するようなもの
でした。
ただ、同級生9人の分校だから良かったのかなと。

5年生からは本校で、遠くなるのですが、5年生の時に、分
校の隣にあった家を父が買って引っ越しました。そこが今も
実家になっています。

中学は九頭竜川を渡った先にあり、それまで住んでいた父が
勤務していた工場の前を毎日通って通っていました。

そして、中学で「赤緑色弱」であることで工業系への進学を
あきらめて福井県立福井商業高校に進学したのですが。その
学校には女の兄弟の一番下、3女が先に通っていて卒業した
後でした。

ただ、兄弟が多かったおかげで、小学校から中学校も高校も
すべてに私の兄弟を知っている先生が居て、どこでも「お前
は〇〇の弟だろう」と言われて、良かったり悪かったり。

商業高校を選んだのは、高校を出て就職も半分。できれば、
進学も半分。なので選んだコースは「商業科進学コース」と
いう出来立ての変な学科で。

中学では陸上競技をしていて、その「北陸3県大会」に行っ
た時に知り合った他校の友達が、高校でいっしょになり、同
学年で2人だけ陸上部に入り、3年。親友です。

高校2年の時に、進学の事を親に尋ねたら、「無理」だと言
われあきためたのですが、次男が陸上自衛隊から全日空に転
職し、私の学費を出してくれることになって、受験すること
ができました。

受験したのは、大阪の私立の大阪経済大学と関西大学は夜間
部、そして、東京の専修大学の3つでした。私立でも比較的
学費の安いところを選んだつもりでした。
大阪で受験し、東京への移動には、生まれて初めて兄が乗務
する飛行機に乗せてもらいました。今はありませんが、ボー
イング727という機種で、兄は航空機関士という仕事をし
ていました。

受けた大学の内、合格したのは大阪経済大学。大阪市東淀川
区の阪急電車京都線の上新庄という駅が最寄り駅の大学でし
た。
高校を卒業して大阪に出て、最初に住んだのは、その頃は大
阪勤務であった兄の兵庫県西宮市のJR甲子園口駅の近くに
あったマンションに居候しました。
ただ、夏休みの終わりころに兄から「結婚するから出てくれ
るか」と言われ、住むところを探したのが大学と同じ阪急京
都線の茨木市駅から歩いて20分くらいのところの学生アパ
ートで、当時は近くには田んぼがあるようなところ。

バイトもしないといけなかったので探してバイトしたのが、
当時あった「スーパーダイエー」の茨木店の精肉売り場。
そこのレジで働いていたのが、かみさんで。
精肉売り場のご主人、奥さんがレジで働いている方が居て
仕事終わりに近くの喫茶店で会わせてくれて。

それから1週間くらいして、彼女の休みの日(クリスマス
の頃)に初めて、京都の嵐山にデートに行って、帰りには
雪が降り出して。彼女が住む阪急宝塚線の池田の寮まで送
って・・・。

それから、本当にいろんな事がありましたが、結婚して、
女、男、女の子供が3人できて。
大阪で学校の先生をして、その後、コンピュータソフト開
発の会社に入社して、四人姉妹の長女で親のこともあり帰
りたがっていたかみさんが、熊本へのUターン制度をテレ
ビで観て知り、その制度のおかげで熊本に事業所がある会
社に転職して・・・。それで、九州へ。

【今日観た映画】
一つは、長澤まさみ主演の「潔く柔く」。

主題歌は。
斉藤和義 Kazuyoshi Saito - かげろう Kagerou (Music Video) Beyond the Memories  

そして、「糸」。

菅田将暉&小松菜奈 映画『糸』MUSIC VIDEO( 中島みゆき「糸」フル )【8月21日(金)公開】

「糸」を観ちゃったからでしょうか。
私は「縁とか運とか」。

中学から高校に進学する時、「赤緑色弱」の問題が
なかったら。福井商業高校へは進んでいなかった。
そして、得意になった「簿記」とも出会わなかった。

高校から大学に進学する時、兄が面倒をみてくれな
かったら進学できなかった。3つ受験して大阪経済
大学に(数学の代わりに簿記で受験して)合格しな
かったら、大阪に居たかどうかわからない。

兄にマンションから出るように言われて、住んだ所
が大阪府茨木市で、バイト先としてダイエーを選ば
なかったら。かみさんとは出会わなかったかもしれ
ない。それも、精肉売り場ではなかったら、かみさ
んと会わせてくれた人とも出会えなかったかもしれ
ない。

かみさんと出会っていなかったら、九州に住むこと
もなかったかも知れない。

どれか一つでも「私の」選択が違っていたら。同じ
ように「かみさんの」選択が違っていたら、会って
いなかったんだな。って。

「糸」を観たからでしょうか。

西やん『糸』  

では、また。






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