皆さんは小学校のことは覚えていますか。私の通った小学校は真野小学校といい、木造の一階建ての校舎でした。学校の後ろには小さな崖があり、前は田んぼが広がっていました。前に、九九で残された時にこのがけに登って日向ぼっこをしながら練習したことを書きました。
朝は正規?の通学路をみんなで通学しました。崖の多い道で片方には田んぼが広がっていて、途中には橋がありました。子どもの足で歩いて40分ぐらいかかりました。
学校には五方向のから集合して来ます。なぜか今も覚えているのですが、その地域は、「日向」「日影」「小島」「小田多」「水沼西」「水沼東」で、子ども会の折にもこのように分かれるのでした。
低学年の頃は、帰りに他のの男の子どもたち同士でケンカして、悪口を言ったり、小石をぶっつけたりしあったことを思い出します。今だったら、いろいろ問題になったことでしょうが、しかられた覚えはないのが不思議です。
帰りは、正規の道は通らなくて、田んぼ道を通り、川で遊んで帰ることもありました。その頃の靴は、ゴム製の短靴で、靴下などだれも履いていませんから、暑いときには汗でぐちょぐちょになります。そんな時には水路や川に靴ごと入って遊んでいるうちにきれいになるというわけです。文字通り「道草を食う」生活が当たり前でした。
*道草を食う=気になったので調べると、吾妻鏡(1185年)にすでに使われていた言葉。誰が草を食うのかと思うと、馬でした。馬が道端の草を食べてなかなか進まないこととあります。その転用と、なるほど納得。『金色夜叉』でも「ずいぶん先から道草を食べましたから」と尾崎紅葉が使っているようです。でも明鏡辞典では「食べましたは間違い」とありました。
朝は正規?の通学路をみんなで通学しました。崖の多い道で片方には田んぼが広がっていて、途中には橋がありました。子どもの足で歩いて40分ぐらいかかりました。
学校には五方向のから集合して来ます。なぜか今も覚えているのですが、その地域は、「日向」「日影」「小島」「小田多」「水沼西」「水沼東」で、子ども会の折にもこのように分かれるのでした。
低学年の頃は、帰りに他のの男の子どもたち同士でケンカして、悪口を言ったり、小石をぶっつけたりしあったことを思い出します。今だったら、いろいろ問題になったことでしょうが、しかられた覚えはないのが不思議です。
帰りは、正規の道は通らなくて、田んぼ道を通り、川で遊んで帰ることもありました。その頃の靴は、ゴム製の短靴で、靴下などだれも履いていませんから、暑いときには汗でぐちょぐちょになります。そんな時には水路や川に靴ごと入って遊んでいるうちにきれいになるというわけです。文字通り「道草を食う」生活が当たり前でした。
*道草を食う=気になったので調べると、吾妻鏡(1185年)にすでに使われていた言葉。誰が草を食うのかと思うと、馬でした。馬が道端の草を食べてなかなか進まないこととあります。その転用と、なるほど納得。『金色夜叉』でも「ずいぶん先から道草を食べましたから」と尾崎紅葉が使っているようです。でも明鏡辞典では「食べましたは間違い」とありました。
独子さんは玉川上水と直接かかわっていたんですね。あの新宿御苑に流れ込んでいたのも玉川上水の水!随分昔、杉本苑子氏の「玉川兄弟」という本を読んだことがあったが、内容は?
木漏れ日さん、奉安殿などを通しての日々の教化が少国民をつくったのでしょうね。このワードでは、ほうあんでんは漢字転換ではヒットしません。一文字ずつ入力!いい意味で死語になってほしいですね。
学校門を入ると、何処の国民学校にも有ったものは「奉安殿」と「二宮金次郎」の銅像でした。奉安殿には「教育勅語」が奉納され、校門を入るときに最敬礼をした。二宮金次郎は「修身」で習うお手本の人物でした。
テレビもゲーム機もない時代ですが、山では高い木に登り鷺の卵をとったり、ポンポン汽船が通過するとき舟底を潜る川遊び等、当時のガキ大将の顔と共に懐かしく思い出しました。
小エビを取りに十二社の池に行ったり、タニシや小魚を取りに玉川上水に行きました。
今の新宿中央公園のはずれに大きな池があったのです。
そこにはたくさんのカメが水面に頭を突き出していました。
大人達はスッポンだと言っていました。
子ども心に、食べるとおいしいのかなと思っていました。
今ではほとんど塞がれていますが、京王線に沿って玉川上水が流れていました。
太宰治で有名な川ですね。
京王線もそのころは地上です。
たまにしか通らないローカルな電車でした。
山手通りと甲州街道のぶつかった今の初台のそばの玉川上水で遊んでいました。
そんな子どもの頃の思い出がよみがえってきました。
自然いいな。
大切にしたいな。
ところでその時に裸足ではいていた靴を「ズック」と呼んで
いたのを思い出しました。