ついにやりました。白熱した試合で七戦までもつれ込んで、ハラハラドキドキしながら目を離せませんでした。
下馬評では巨人有利が多かったと思いますが、やはり、楽天選手の意気込み、ファンの熱烈応援、監督の対巨人戦への執念が実ったのでしょう。
おめでとう!東北楽天、東北のみなさん!
特に、この球団の優勝には大きな意味があったと思います。
東北楽天が優勝してよかったと思うのは、次のようなことがあるからです。
①2011年3月11日以後、球場も使えない中で、各地で練習するという不利な条件を乗り越えてきたこと。
②選手が被災者への支援活動を70回も!続けてきていること。これには、被災者への励ましの活動や、野球をあきらめていた子への支援や野球教室など多彩な活動があります。たった2回しか行っていない自分でも、その回数に表れている取り組みのすごさが分かります。
③田中将大選手が中心になって88回をつくり同期の人たちでの支援活動。また未だに選手会等で募金活動をし続けていること。
④様々な支援活動の中で見せたやさしさから、さらに子どもたちへ生きる勇気をあげようと、今度は強さを見せようと頑張ってきた意気込み。
⑤選手みんなで相談して、あの嶋選手のメッセージを表明するという地域に根ざす野球集団の力を見せてくれていたこと。
⑥東北(青森秋田山形岩手宮城福島とあえて書きます)で初めての球団で、球団の思いと地域の思いが一致して、多くの人があの97敗した年でも熱烈応援をし続けてきた思いに驚きと共感をするから。
以上のように、選手の東北を励ますとの意志的な取り組みの中で、「誰かのために戦うことは、より大きな力を発揮する」と、力では上と思われる巨人に勝つことができたのでしょう。こんな球団あったでしょうか。
きっとこれからも、スポーツの力とともにこの東北楽天のこの3年間の取り組みは語り継がれるでしょう。ありがとう、東北楽天の選手たち!
以下は、あの泣けてしまった嶋選手の熱い思いのこもったメッセージです。
楽天・嶋基宏選手のメッセージ(2011年4月2日、札幌ドーム)
あの大災害、本当にあったことなのか、今でも信じられません。僕たちの本拠地であり、住んでいる仙台、東北が今回の地震、津波によって大きな被害を受けました。
地震が起きた時、僕らは兵庫県で試合をしていました。
家がある仙台にはもう1カ月も帰れず、横浜、名古屋、神戸、博多、そしてこの札幌など全国各地を転々としています。
先日、私たちが神戸で募金活動をしたときに「前は私たちが助けられたから、今度は私たちが助ける」と声をかけてくださった方がいました。
今、日本中が東北をはじめとして、震災にあわれた方を応援し、みんなで支え合おうとしています。
地震が起きてから眠れない夜を過ごしていましたが、選手みんなで「自分たちに何ができるか」「自分たちは何をすべきか」を議論し、考え抜きました。
今、スポーツの域を超えた野球の真価が問われています。見せましょう、野球の底力を。見せましょう、野球選手の底力を。見せましょう、野球ファンの底力を。ともに頑張ろう東北。支えあおう日本。
僕たちも野球の底力を信じて、精一杯プレーします。被災地のために、ご協力をお願いします。
嶋基宏選手の仙台でのあいさつ(2011年4月29日、Kスタ宮城)
本日はこのような状況の中、Kスタ宮城に足を運んでいただき、またテレビ、ラジオを通じてご覧いただき、まことにありがとうございます。
この球場に来ることが簡単ではなかった方、ここに来たくても来られなかった方も大勢いらっしゃったかと思います。
地震が起こった時、僕たちは兵庫県にいました。遠方の地から家族ともなかなか連絡が取れず、不安な気持ちを抱きながら全国各地を転戦していました。
報道を通じて被害状況が明らかになっていくにつれて、僕たちもどんどん暗くなっていきました。その時のことを考えると、今日、ここKスタ宮城で試合を開催できたことが信じられません。
震災後、選手みんなで「自分たちに何ができるか」「自分たちは何をすべきか」を議論して、考え抜き、東北の地に戻れる日を待ち続けました。
そして開幕5日前、選手みんなで初めて仙台に戻ってきました。変わり果てたこの東北の地を目と心にしっかりと刻み、「遅れて申し訳ない」という気持ちで避難所を訪問したところ、みなさんから「おかえりなさい」「私たちも負けないから頑張ってね」と声をかけていただき、涙を流しました。
その時に何のために僕たちは闘うのか、はっきりしました。この1カ月半で分かったことがあります。それは「誰かのために闘う人間は強い」ということです。
東北のみなさん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。絶対に勝ち抜きましょう、この時を。今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と、明るい未来が待っているはずです。絶対に見せましょう、東北の底力を。本当にありがとうございました。
次は、地元仙台で発行されている「河北新報」の記事の一部です。
2013年11月4日(月)09:20
天下取った 闘将が4度目で悲願、宿敵G倒し男泣き プロ野球東北楽天は3日、仙台市宮城野区の日本製紙クリネックススタジアム宮城で行われた日本シリーズ第7戦で巨人を3-0で下し、初の日本一に輝いた。星野仙一監督にとって中日、阪神で計3度出場し、全てはね返された大きな壁だった。そして東北の地で宿敵巨人を破っての初栄冠。万感の思いに指揮官は男泣きした。
ゲームセットの瞬間、星野監督はグラウンドにゆっくりと足を進めた。マウンド上に集まった選手の歓喜の輪の中で、仙台の夜空に9度舞った。
監督として通算16年目。日本一は一度もなかった。「短期決戦に弱い指揮官」と言われもしたが、これまでは「日本シリーズは長いペナントレースのご褒美のようなもの。(負けても)気にしていないよ」と意に介さなかった。
今回は違う。初めてパ・リーグの指揮を執り、3年目でのリーグ制覇。クライマックスシリーズ(CS)を突破し、迎えた日本シリーズの相手が巨人だった。「永遠のライバル」を相手に燃えないわけがなかった。日本シリーズ前には、投手陣に「ソフトバンクや西武に比べたら、巨人打線のレベルは中くらい。自信を持て」と鼓舞した。
もう一つ、頂点を目指さなければならない理由がある。2011年の東日本大震災での被災者への誓いだ。「勝って希望の光となる」。あの日から忘れずに持ち続けた信念が、日本一への意欲を一層高めた。
「今まで誰も楽天が勝つとは考えていなかっただろう。Bクラスがほとんどのチームで、震災もあった。でもな、そういう(困難に直面した)チームだから、勝てば、復興途上にある人たちに勇気を与えられるんだ」と信じた。
監督の思いが伝わったかのように、日本シリーズでは選手が死力を尽くした。第2戦は手塩に育てた銀次が先制打。第5戦の藤田の涙には指揮官ももらい泣きした。
第6戦はエース田中が今季初黒星を喫したが、9回160球の熱投で意地を見せた。試合後には選手に「(第7戦に勝って)どうせなら、うれし涙を流させてくれよ」と訴え、この日先発した美馬が第3戦に続く力投で頂点に導いてくれた。
お立ち台に立った背番号77。待ち受けていたのは大歓声だった。「優し過ぎる」とあえて苦言を呈しもしたが、東北のファンの熱烈な歓迎が心地よかった。「東北を熱くする」。就任時の闘将の宣言は、ついに現実となった。(中村紳哉)
◎雨のKスタ熱狂
こぬか雨降る東北の空に、闘将の体が9度舞った。日本製紙クリネックススタジアム宮城(仙台市宮城野区、Kスタ宮城)で3日あった日本シリーズ第7戦。東北楽天は3-0で巨人を下し初の日本一に輝いた。球団創設9年目でつかんだ頂点に、超満員のスタンドは喜びを爆発させた。
九回、巨人の攻撃。田中将大投手の名前がコールされると、地鳴りのような歓声が球場を包む。「意気に感じた」というエースは、前日160球を投げたにもかかわらず、こん身の投球で巨人打線に立ち向かう。最後の打者を空振り三振に仕留めると、夜空に大きく両手を突き上げた。
田中投手を中心としてマウンドに広がる歓喜の輪。それに星野仙一監督がゆっくりと近づく。嶋基宏捕手、田中投手、そして号泣する銀次内野手と抱き合うと輪の中央へ。胴上げに合わせ、スタンドでも万歳が続いた。
巨人に逆王手をかけられて迎えた第7戦。それでも逆転に次ぐ逆転でシーズンを制したチームにとって、逆境こそが本領を発揮する場面だった。
立ち上がりから巨人先発杉内俊哉投手に食らいついて、一回は敵失から1点を先制。二回にも岡島豪郎外野手の適時二塁打で1点。四回は牧田明久外野手のソロ本塁打でリードを広げた。
投げては先発の美馬学投手が好投を見せた。試合前から降る雨を涙雨にするまいと、スタンドは懸命に声援を送る。七回からは則本昂大投手をつなぎ、九回は田中投手で巨人打線を封じた。
東北に夢と感動を与え続けたシーズンだった。仙台市青葉区の庄子礼子さん(65)は優勝の瞬間、涙が止まらなかった。「Kスタで日本一の瞬間を見ることができて最高の幸せ。感無量。マー君にもみんなにも感動をありがとうと言いたい」
東日本大震災の被災地に希望を届ける日本一だ。「震災以来いつか日本一になって、被災地の苦労をほんの少しでも癒やせればと思っていた」と星野監督。石巻市から観戦に訪れていた小山公通さん(75)は「石巻では多くの人が仮設住宅で見ている。被災地のみんなが励まされたと思う」と感激の面持ちで話した。
下馬評では巨人有利が多かったと思いますが、やはり、楽天選手の意気込み、ファンの熱烈応援、監督の対巨人戦への執念が実ったのでしょう。
おめでとう!東北楽天、東北のみなさん!
特に、この球団の優勝には大きな意味があったと思います。
東北楽天が優勝してよかったと思うのは、次のようなことがあるからです。
①2011年3月11日以後、球場も使えない中で、各地で練習するという不利な条件を乗り越えてきたこと。
②選手が被災者への支援活動を70回も!続けてきていること。これには、被災者への励ましの活動や、野球をあきらめていた子への支援や野球教室など多彩な活動があります。たった2回しか行っていない自分でも、その回数に表れている取り組みのすごさが分かります。
③田中将大選手が中心になって88回をつくり同期の人たちでの支援活動。また未だに選手会等で募金活動をし続けていること。
④様々な支援活動の中で見せたやさしさから、さらに子どもたちへ生きる勇気をあげようと、今度は強さを見せようと頑張ってきた意気込み。
⑤選手みんなで相談して、あの嶋選手のメッセージを表明するという地域に根ざす野球集団の力を見せてくれていたこと。
⑥東北(青森秋田山形岩手宮城福島とあえて書きます)で初めての球団で、球団の思いと地域の思いが一致して、多くの人があの97敗した年でも熱烈応援をし続けてきた思いに驚きと共感をするから。
以上のように、選手の東北を励ますとの意志的な取り組みの中で、「誰かのために戦うことは、より大きな力を発揮する」と、力では上と思われる巨人に勝つことができたのでしょう。こんな球団あったでしょうか。
きっとこれからも、スポーツの力とともにこの東北楽天のこの3年間の取り組みは語り継がれるでしょう。ありがとう、東北楽天の選手たち!
以下は、あの泣けてしまった嶋選手の熱い思いのこもったメッセージです。
楽天・嶋基宏選手のメッセージ(2011年4月2日、札幌ドーム)
あの大災害、本当にあったことなのか、今でも信じられません。僕たちの本拠地であり、住んでいる仙台、東北が今回の地震、津波によって大きな被害を受けました。
地震が起きた時、僕らは兵庫県で試合をしていました。
家がある仙台にはもう1カ月も帰れず、横浜、名古屋、神戸、博多、そしてこの札幌など全国各地を転々としています。
先日、私たちが神戸で募金活動をしたときに「前は私たちが助けられたから、今度は私たちが助ける」と声をかけてくださった方がいました。
今、日本中が東北をはじめとして、震災にあわれた方を応援し、みんなで支え合おうとしています。
地震が起きてから眠れない夜を過ごしていましたが、選手みんなで「自分たちに何ができるか」「自分たちは何をすべきか」を議論し、考え抜きました。
今、スポーツの域を超えた野球の真価が問われています。見せましょう、野球の底力を。見せましょう、野球選手の底力を。見せましょう、野球ファンの底力を。ともに頑張ろう東北。支えあおう日本。
僕たちも野球の底力を信じて、精一杯プレーします。被災地のために、ご協力をお願いします。
嶋基宏選手の仙台でのあいさつ(2011年4月29日、Kスタ宮城)
本日はこのような状況の中、Kスタ宮城に足を運んでいただき、またテレビ、ラジオを通じてご覧いただき、まことにありがとうございます。
この球場に来ることが簡単ではなかった方、ここに来たくても来られなかった方も大勢いらっしゃったかと思います。
地震が起こった時、僕たちは兵庫県にいました。遠方の地から家族ともなかなか連絡が取れず、不安な気持ちを抱きながら全国各地を転戦していました。
報道を通じて被害状況が明らかになっていくにつれて、僕たちもどんどん暗くなっていきました。その時のことを考えると、今日、ここKスタ宮城で試合を開催できたことが信じられません。
震災後、選手みんなで「自分たちに何ができるか」「自分たちは何をすべきか」を議論して、考え抜き、東北の地に戻れる日を待ち続けました。
そして開幕5日前、選手みんなで初めて仙台に戻ってきました。変わり果てたこの東北の地を目と心にしっかりと刻み、「遅れて申し訳ない」という気持ちで避難所を訪問したところ、みなさんから「おかえりなさい」「私たちも負けないから頑張ってね」と声をかけていただき、涙を流しました。
その時に何のために僕たちは闘うのか、はっきりしました。この1カ月半で分かったことがあります。それは「誰かのために闘う人間は強い」ということです。
東北のみなさん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。絶対に勝ち抜きましょう、この時を。今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と、明るい未来が待っているはずです。絶対に見せましょう、東北の底力を。本当にありがとうございました。
次は、地元仙台で発行されている「河北新報」の記事の一部です。
2013年11月4日(月)09:20
天下取った 闘将が4度目で悲願、宿敵G倒し男泣き プロ野球東北楽天は3日、仙台市宮城野区の日本製紙クリネックススタジアム宮城で行われた日本シリーズ第7戦で巨人を3-0で下し、初の日本一に輝いた。星野仙一監督にとって中日、阪神で計3度出場し、全てはね返された大きな壁だった。そして東北の地で宿敵巨人を破っての初栄冠。万感の思いに指揮官は男泣きした。
ゲームセットの瞬間、星野監督はグラウンドにゆっくりと足を進めた。マウンド上に集まった選手の歓喜の輪の中で、仙台の夜空に9度舞った。
監督として通算16年目。日本一は一度もなかった。「短期決戦に弱い指揮官」と言われもしたが、これまでは「日本シリーズは長いペナントレースのご褒美のようなもの。(負けても)気にしていないよ」と意に介さなかった。
今回は違う。初めてパ・リーグの指揮を執り、3年目でのリーグ制覇。クライマックスシリーズ(CS)を突破し、迎えた日本シリーズの相手が巨人だった。「永遠のライバル」を相手に燃えないわけがなかった。日本シリーズ前には、投手陣に「ソフトバンクや西武に比べたら、巨人打線のレベルは中くらい。自信を持て」と鼓舞した。
もう一つ、頂点を目指さなければならない理由がある。2011年の東日本大震災での被災者への誓いだ。「勝って希望の光となる」。あの日から忘れずに持ち続けた信念が、日本一への意欲を一層高めた。
「今まで誰も楽天が勝つとは考えていなかっただろう。Bクラスがほとんどのチームで、震災もあった。でもな、そういう(困難に直面した)チームだから、勝てば、復興途上にある人たちに勇気を与えられるんだ」と信じた。
監督の思いが伝わったかのように、日本シリーズでは選手が死力を尽くした。第2戦は手塩に育てた銀次が先制打。第5戦の藤田の涙には指揮官ももらい泣きした。
第6戦はエース田中が今季初黒星を喫したが、9回160球の熱投で意地を見せた。試合後には選手に「(第7戦に勝って)どうせなら、うれし涙を流させてくれよ」と訴え、この日先発した美馬が第3戦に続く力投で頂点に導いてくれた。
お立ち台に立った背番号77。待ち受けていたのは大歓声だった。「優し過ぎる」とあえて苦言を呈しもしたが、東北のファンの熱烈な歓迎が心地よかった。「東北を熱くする」。就任時の闘将の宣言は、ついに現実となった。(中村紳哉)
◎雨のKスタ熱狂
こぬか雨降る東北の空に、闘将の体が9度舞った。日本製紙クリネックススタジアム宮城(仙台市宮城野区、Kスタ宮城)で3日あった日本シリーズ第7戦。東北楽天は3-0で巨人を下し初の日本一に輝いた。球団創設9年目でつかんだ頂点に、超満員のスタンドは喜びを爆発させた。
九回、巨人の攻撃。田中将大投手の名前がコールされると、地鳴りのような歓声が球場を包む。「意気に感じた」というエースは、前日160球を投げたにもかかわらず、こん身の投球で巨人打線に立ち向かう。最後の打者を空振り三振に仕留めると、夜空に大きく両手を突き上げた。
田中投手を中心としてマウンドに広がる歓喜の輪。それに星野仙一監督がゆっくりと近づく。嶋基宏捕手、田中投手、そして号泣する銀次内野手と抱き合うと輪の中央へ。胴上げに合わせ、スタンドでも万歳が続いた。
巨人に逆王手をかけられて迎えた第7戦。それでも逆転に次ぐ逆転でシーズンを制したチームにとって、逆境こそが本領を発揮する場面だった。
立ち上がりから巨人先発杉内俊哉投手に食らいついて、一回は敵失から1点を先制。二回にも岡島豪郎外野手の適時二塁打で1点。四回は牧田明久外野手のソロ本塁打でリードを広げた。
投げては先発の美馬学投手が好投を見せた。試合前から降る雨を涙雨にするまいと、スタンドは懸命に声援を送る。七回からは則本昂大投手をつなぎ、九回は田中投手で巨人打線を封じた。
東北に夢と感動を与え続けたシーズンだった。仙台市青葉区の庄子礼子さん(65)は優勝の瞬間、涙が止まらなかった。「Kスタで日本一の瞬間を見ることができて最高の幸せ。感無量。マー君にもみんなにも感動をありがとうと言いたい」
東日本大震災の被災地に希望を届ける日本一だ。「震災以来いつか日本一になって、被災地の苦労をほんの少しでも癒やせればと思っていた」と星野監督。石巻市から観戦に訪れていた小山公通さん(75)は「石巻では多くの人が仮設住宅で見ている。被災地のみんなが励まされたと思う」と感激の面持ちで話した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます