昨日は2017年10月10日衆議院議員選挙の告示日である。安倍首相によるご都合解散とか、疑惑隠し解散とか、はたまた憲法違反解散とかいわれ、実に大義のない解散が行われてしまっている。そのために600億円と言う途方もない費用が使われることになる。
北朝鮮の脅威をことさらに理由にする首相の姿や、都知事の名まえがTVや新聞に乱舞する様を見るにつけ、冷静に言っている事と彼らの来歴を比べたいと思う。そんなおり、TVが無かった時代ではあるが新聞・ラジオが中心の時代のメディアがどのようにして国民を戦争に導いてしまったのかを振り返るのも大事なことかもしれない。
この本の帯の言葉は、「一番大事な昭和史の教訓 ―もはや時代は「戦前」なのか?昭和史は繰り返す」などと問題提起している。
この本は2012年(平成24)の自民党憲法改正草案の発表を受けてのものである。
この草案には、9条の改悪も許せないが、一番大事だと思う言論の自由や出版の自由が全く無視されてしまう第21条の改悪があるとして、それに怒りをこめて以下のような問題意識の下にお二人が対談したものである。
*自民党憲法改正案は、21条で、第一項では今の憲法そのままで、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は保障」しているが、第2項ではそのすべてを否定する文言を入れている。それは「前項の規定に関わらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは認められない」というものである。
「公益それに反するものは、公益および公の秩序」の文言は権力者がいくらでも拡大できるもので、罰せられ、弾圧されるもので、権力者の常套手段である。
昭和史の歴史が示すように、言論の自由を奪ってマスメデイアを思いのままに動かし、戦争という熱狂をつくりあげていった。以上のような事実と、特に日本人は公正な考えより空気や現象で動かされやすい面があるという嘆きもあり、戦後しか知らない私ではあるが同感であると思った。
*以下、詳しく内容にはふれないが主な章と概要。
序章 今なぜジャーナリズム論か
ジャーナリストの不勉強と、考えることの放棄からファシズムへつながっていくという経験から、今がそのような時代になりはじめているという。
第一章 戦争報道と商業主義
「戦争に協力すると新聞は売れる」、「メデイアは売上げで動く」、「ジャーナリズムの堕落」、「商売が先に立つと言論は守れない」などと言う小見出しは著者の経験によるメディアの本質的な面である。
権力へすり寄って情報を得て報道し読者を増やす。権力へ協力する内容の多い産経、読売などは首相自身が他社には話さない特ダネが記事になることをしているし、国会でも公言している。平時でさえそうなのだ。
かつて北海道新聞が道警の裏金問題を追及したことで警察は北海道新聞がいるから話さないということに対して他紙は守るのではなくて、北海道新聞は出ていってくれと同調した例などは当に現在もジャーナリズムとして言論の自由のために一緒に闘うのではな良い情報をもらいたいという利己的な記者たちが多い実情を示している。
これを読みながら、最近でも菅官房長官の木で鼻をくくったような記者会見で、東京新聞の女性記者がするどい追及をしたことをとらえて、自民党が他社が追及しないような問題を執拗に追及したなどと、あげつらって抗議をした例を思いだした。
それについて新聞各社あるいは新聞協会などが自民党へ抗議したという記事はないのも同じ傾向である。TVも新聞も担い手でありながら,同時に商売であるという現実と限界。
第二章 テロと暴力賛美の歪み、その内側
「『義挙』というテロに甘い国民(昭和7年の5・15事件など)」や、「『明治維新』というテロを美化した悪影響」、「テロの時代に社会が暴力化していく」、「なだれ現象は歴史が示す日本民族の弱点」などが小見出しにある。
「なだれ現象は歴史が示す日本民族の弱点」の項では「鬼畜米英」、とか「八紘一宇」とか言われると、付和雷同しやすい、集団催眠にかかりやすい⇒なだれ現象など、つくづくそうだと思うことが見られるのではないだろうか。
例えばサリン事件では河野さんを、マスコミ、国民が犯人扱いしたことにわかるように、一斉に走り出してしまう。立ち止まって考えることができない国民性を指摘している。
私はこれに、政治的に大事なことをすぐ忘れて、無かったことにする面も挙げられると思う。国民の反対を押しきって、あんなに強行採決を繰り返して、森友・加計問題などのように疑惑ほおかぶりしてきたことを怒ってもしばらくすると支持率は回復することに表れる国民性。政権もそれを知っていて目をそらすようなことをしたり、時間稼ぎをする。そういえば日本には「人のうわさも七十五日」と言うのがあった。また目新しい人が登場するとその人が本当に政治家として国民のためになるのか否かではなく、TVやマスコミとともにブームを作りそれにのってしまう。自戒でもある。
第三章国際社会との亀裂の広がり
ここでは、どこの国でもジャヤーナリズムが国家と一体になってしまっていたこと、特に日本では、軍の暴走を止める勇気を持っているジャーナリズムがいなくなっていたことなどから、アメリカの正しい情報が国民には伝わらなかったという事実を突く。斎藤茂吉、亀井勝一郎、清水幾太郎、高村光太郎、武者小路実篤など多くの文化人も、米英への宣戦をたたえたり、酔ったりしていたという事例は多すぎるほどと言う。
また、最近も「売国奴」などと言う言葉が復活していることからも、今が戦前の始まりではとも言う。国際連盟を脱退して、戦争へ突き進んでいった例もしめす。
今日でも、世界の動きとして国連で「核兵器禁止条約」が採択されても、アメリカと一体と日本政府は批准もしないことや、北朝鮮へのアメリカの大統領と一緒の挑発的な姿勢はそれに似てはいないだろうか。ネット上での異見への口ぎたない非難誹謗が多いというのも歴史や正しい情報を学ばずに都合の良い情報のみを受け止めている人々が多いからだろうと思う。
(以下次回)
『そして、メデイアは日本を戦争に導いた』
半藤一利 保阪正康 著 文春文庫 2016年
2013年単行本(東洋済新報社)
北朝鮮の脅威をことさらに理由にする首相の姿や、都知事の名まえがTVや新聞に乱舞する様を見るにつけ、冷静に言っている事と彼らの来歴を比べたいと思う。そんなおり、TVが無かった時代ではあるが新聞・ラジオが中心の時代のメディアがどのようにして国民を戦争に導いてしまったのかを振り返るのも大事なことかもしれない。
この本の帯の言葉は、「一番大事な昭和史の教訓 ―もはや時代は「戦前」なのか?昭和史は繰り返す」などと問題提起している。
この本は2012年(平成24)の自民党憲法改正草案の発表を受けてのものである。
この草案には、9条の改悪も許せないが、一番大事だと思う言論の自由や出版の自由が全く無視されてしまう第21条の改悪があるとして、それに怒りをこめて以下のような問題意識の下にお二人が対談したものである。
*自民党憲法改正案は、21条で、第一項では今の憲法そのままで、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は保障」しているが、第2項ではそのすべてを否定する文言を入れている。それは「前項の規定に関わらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは認められない」というものである。
「公益それに反するものは、公益および公の秩序」の文言は権力者がいくらでも拡大できるもので、罰せられ、弾圧されるもので、権力者の常套手段である。
昭和史の歴史が示すように、言論の自由を奪ってマスメデイアを思いのままに動かし、戦争という熱狂をつくりあげていった。以上のような事実と、特に日本人は公正な考えより空気や現象で動かされやすい面があるという嘆きもあり、戦後しか知らない私ではあるが同感であると思った。
*以下、詳しく内容にはふれないが主な章と概要。
序章 今なぜジャーナリズム論か
ジャーナリストの不勉強と、考えることの放棄からファシズムへつながっていくという経験から、今がそのような時代になりはじめているという。
第一章 戦争報道と商業主義
「戦争に協力すると新聞は売れる」、「メデイアは売上げで動く」、「ジャーナリズムの堕落」、「商売が先に立つと言論は守れない」などと言う小見出しは著者の経験によるメディアの本質的な面である。
権力へすり寄って情報を得て報道し読者を増やす。権力へ協力する内容の多い産経、読売などは首相自身が他社には話さない特ダネが記事になることをしているし、国会でも公言している。平時でさえそうなのだ。
かつて北海道新聞が道警の裏金問題を追及したことで警察は北海道新聞がいるから話さないということに対して他紙は守るのではなくて、北海道新聞は出ていってくれと同調した例などは当に現在もジャーナリズムとして言論の自由のために一緒に闘うのではな良い情報をもらいたいという利己的な記者たちが多い実情を示している。
これを読みながら、最近でも菅官房長官の木で鼻をくくったような記者会見で、東京新聞の女性記者がするどい追及をしたことをとらえて、自民党が他社が追及しないような問題を執拗に追及したなどと、あげつらって抗議をした例を思いだした。
それについて新聞各社あるいは新聞協会などが自民党へ抗議したという記事はないのも同じ傾向である。TVも新聞も担い手でありながら,同時に商売であるという現実と限界。
第二章 テロと暴力賛美の歪み、その内側
「『義挙』というテロに甘い国民(昭和7年の5・15事件など)」や、「『明治維新』というテロを美化した悪影響」、「テロの時代に社会が暴力化していく」、「なだれ現象は歴史が示す日本民族の弱点」などが小見出しにある。
「なだれ現象は歴史が示す日本民族の弱点」の項では「鬼畜米英」、とか「八紘一宇」とか言われると、付和雷同しやすい、集団催眠にかかりやすい⇒なだれ現象など、つくづくそうだと思うことが見られるのではないだろうか。
例えばサリン事件では河野さんを、マスコミ、国民が犯人扱いしたことにわかるように、一斉に走り出してしまう。立ち止まって考えることができない国民性を指摘している。
私はこれに、政治的に大事なことをすぐ忘れて、無かったことにする面も挙げられると思う。国民の反対を押しきって、あんなに強行採決を繰り返して、森友・加計問題などのように疑惑ほおかぶりしてきたことを怒ってもしばらくすると支持率は回復することに表れる国民性。政権もそれを知っていて目をそらすようなことをしたり、時間稼ぎをする。そういえば日本には「人のうわさも七十五日」と言うのがあった。また目新しい人が登場するとその人が本当に政治家として国民のためになるのか否かではなく、TVやマスコミとともにブームを作りそれにのってしまう。自戒でもある。
第三章国際社会との亀裂の広がり
ここでは、どこの国でもジャヤーナリズムが国家と一体になってしまっていたこと、特に日本では、軍の暴走を止める勇気を持っているジャーナリズムがいなくなっていたことなどから、アメリカの正しい情報が国民には伝わらなかったという事実を突く。斎藤茂吉、亀井勝一郎、清水幾太郎、高村光太郎、武者小路実篤など多くの文化人も、米英への宣戦をたたえたり、酔ったりしていたという事例は多すぎるほどと言う。
また、最近も「売国奴」などと言う言葉が復活していることからも、今が戦前の始まりではとも言う。国際連盟を脱退して、戦争へ突き進んでいった例もしめす。
今日でも、世界の動きとして国連で「核兵器禁止条約」が採択されても、アメリカと一体と日本政府は批准もしないことや、北朝鮮へのアメリカの大統領と一緒の挑発的な姿勢はそれに似てはいないだろうか。ネット上での異見への口ぎたない非難誹謗が多いというのも歴史や正しい情報を学ばずに都合の良い情報のみを受け止めている人々が多いからだろうと思う。
(以下次回)
『そして、メデイアは日本を戦争に導いた』
半藤一利 保阪正康 著 文春文庫 2016年
2013年単行本(東洋済新報社)
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