今日の東京中日スポーツ紙(2015年8月2日)に「幻の甲子園で優勝していた徳島商業」の見出しで戦時中の高校野球についての記事が載っていました。高校野球も国が主導して、国威発揚に利用していたことが分かります。他のスポーツもそうですが、軍事色になるのが戦争時の姿ですね。
記事を読み、他の資料を見ると、次のようなことが分かりました。
96年の高校野球の中で1918年(大正7)は米騒動のために中止,1941年(昭和16)は学徒の2県を越える移動は禁止によって、大会は中止と二回中止が記録されている。
同年12月、真珠湾攻撃が起き、日本は太平洋戦争に突入していく。
ところが、1942年(昭和17年)に国民の戦意を高めるため、これまで主催していた朝日新聞ではなく、文部省と大日本学徒体育振興会の主催で行われた。
朝日新聞社は,回数の継続と優勝旗の使用を願い出たが、国は拒絶した。高野連のホームページにも、この年の記録はなく、戦争のため中絶となっている。
大会は、地区予選を勝ち抜いた16校で行われ、当時植民地であった台湾からは「台北工」も参加した。ストライク、ボールなど用語は英語を用いることができたが、胸の学校名はローマ字は禁止で日本語に変更させられた。当時は教育制度の違いから、高校野球ではなく、中等学校野球といった。
あくまでもねらいは戦意高揚なので、日本軍が進行の大半を担って、軍事色のかなり強い大会となった。
スコアボードには、「勝って兜の緒を締めよ」「戦ひ抜かう大東亜戦」のスローガンが大きく浮かぶ。高校野球100年の歴史の中で唯一、国が主催した大会は、戦争のために利用されていた。
当時、野球が敵性球技とみなされていたので、試合が始まると、ルールが大きく異なっていた。
参加した選手は、
「あのときの野球はひどかった。何しろ、打席で内角のボールを避けたら、『逃げるな! 日本男子たるもの、球から逃げるとは何ごとだ』と審判に怒られた。」と話している。
また、
「突撃精神に反する」として、1チーム9人で選手交代が原則禁止された。球を避けてはならず、当たっても死球と認められなかった。「選手」は「選士(せんし)」と呼称を変えさせられた。エラーをした選手に軍人が殴りかかる場面もあったという。
会場でのサイレンは禁止で、進軍ラッパを鳴らした。
このような野球が行われていた時代には、どの学校でも、軍事教練という授業があった。10キロの荷物を担いで100メートルを走る、手りゅう弾を投げるなど、学校で兵士の訓練を行うのだ。時代は戦争一色となっていった。
当時の徳島商業の球児であった、梅本さん(88歳)は「平和な時に野球ができる幸せをかみしめてほしい。」と話している。
なお、35年後の1977年文部省はようやく同校に優勝盾と賞状を渡したが、高校野球の記録には残っていない。
記事を読み、他の資料を見ると、次のようなことが分かりました。
96年の高校野球の中で1918年(大正7)は米騒動のために中止,1941年(昭和16)は学徒の2県を越える移動は禁止によって、大会は中止と二回中止が記録されている。
同年12月、真珠湾攻撃が起き、日本は太平洋戦争に突入していく。
ところが、1942年(昭和17年)に国民の戦意を高めるため、これまで主催していた朝日新聞ではなく、文部省と大日本学徒体育振興会の主催で行われた。
朝日新聞社は,回数の継続と優勝旗の使用を願い出たが、国は拒絶した。高野連のホームページにも、この年の記録はなく、戦争のため中絶となっている。
大会は、地区予選を勝ち抜いた16校で行われ、当時植民地であった台湾からは「台北工」も参加した。ストライク、ボールなど用語は英語を用いることができたが、胸の学校名はローマ字は禁止で日本語に変更させられた。当時は教育制度の違いから、高校野球ではなく、中等学校野球といった。
あくまでもねらいは戦意高揚なので、日本軍が進行の大半を担って、軍事色のかなり強い大会となった。
スコアボードには、「勝って兜の緒を締めよ」「戦ひ抜かう大東亜戦」のスローガンが大きく浮かぶ。高校野球100年の歴史の中で唯一、国が主催した大会は、戦争のために利用されていた。
当時、野球が敵性球技とみなされていたので、試合が始まると、ルールが大きく異なっていた。
参加した選手は、
「あのときの野球はひどかった。何しろ、打席で内角のボールを避けたら、『逃げるな! 日本男子たるもの、球から逃げるとは何ごとだ』と審判に怒られた。」と話している。
また、
「突撃精神に反する」として、1チーム9人で選手交代が原則禁止された。球を避けてはならず、当たっても死球と認められなかった。「選手」は「選士(せんし)」と呼称を変えさせられた。エラーをした選手に軍人が殴りかかる場面もあったという。
会場でのサイレンは禁止で、進軍ラッパを鳴らした。
このような野球が行われていた時代には、どの学校でも、軍事教練という授業があった。10キロの荷物を担いで100メートルを走る、手りゅう弾を投げるなど、学校で兵士の訓練を行うのだ。時代は戦争一色となっていった。
当時の徳島商業の球児であった、梅本さん(88歳)は「平和な時に野球ができる幸せをかみしめてほしい。」と話している。
なお、35年後の1977年文部省はようやく同校に優勝盾と賞状を渡したが、高校野球の記録には残っていない。
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