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暑中お見舞いを申し上げます









第一次大戦中、連合軍とドイツ軍が激戦を繰りかえしたイーペル
今はただのどかな田園風景が広がるばかり



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「ノスタルジア」




タルコフスキー監督の「ノスタルジア」。


神戸か大阪でこれを初めて観たとき、わたしは20歳位だったと思う。

こういう「難解な」映画が小さい映画館にやってくるとひたすら1人で観に行った。
今はもうしなくなったことのひとつだ。

子どもの頃から頭は悪かったが、なぜか「世界を単純に説明したくない」と思っていて、世界を単純に説明することに抵抗する映画を好んで観たのである。ちなみに世界を単純に説明したくないという気持ちは、世界を複雑に説明したい、という気持ちとは別ものである。

もうひとつ、「そういう映画を好んで観に行くわたし」に酔っていたという理由もあるな。子どもはそうやって大人になるのである。うん。ノスタルジー。


そして、気取ったポーズのために行ったにも関わらずと言うか、まさにそのためにと言うべきか、タルコフスキーの、象徴に満ちた世界を象徴によって救済するというテーマに完全に虜にされてしまった。

ああ、カントク、わたしも世界をこのように見ているんですよ!と共感すると同時に、
わたしも世界をこのように見られるような大人になりたいです!と強く思ったものである。
そのころと前後して、わたしは強烈に理屈っぽいお嬢さんに成長して行くのだが。ワンレンボディコン、強烈に理屈っぽいお嬢さん(笑)。公害みたいですね...


.....


さて、あれから何十年も経った。

わたしどもが旅行を計画するときに一番大切だと思うのは宿泊先だ。
宿泊先は知り合いのGMに紹介してもらったりする他、Tablet Hotelsやアメックスなどで探すことが多い。
で、そういう会社はマメに営業のメールを配信しているわけで、このよくできたレターを見ているといろいろなところに行きたくなる。

先日は、イギリスのマナーハウスや城などをホテルに仕立て直した施設の宣伝であった。
わたしはすぐにイギリスのバースに行きたい!と叫んでいた。

それはわたしの記憶の中で「ノスタルジア」に登場する温泉が、イギリスはバースのローマ式野外温泉と重なっていたからだった(実際の背景は、イタリアはトスカーニャ地方のバーニョ・ヴィニョーニというローマ式野外温泉である)。


映画の中で見て以来、自分の頭の中で何度も何度も建ててみたローマ式の回廊のある温泉が、イタリアのそれに似ているのか、イギリスのそれに似ているのか、知りたいのだ。


ノスタルジアは現実とは別のものなのである。


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たそがれどき







たそがれどき。


友人とテラス席でくつろいでいたら、通りがかりの地元女性に「まあ、ごきげんよう!」という感じで話しかけられた。
誰そ彼時とはよく言ったもので、周囲は薄暗く、結局わたしはこの人物が誰だったのか分からずじまいだった。

大禍時(逢う魔が時)ともいうから、あれはもしかしたらやさしい悪魔だったのでは...


でも、「ほんとうに、ねえ」「まあ、すてき」という相づち程度で、会話は楽々と続けられるのだということが分かった(落語みたいやな)。

これがわたしが礼儀作法が一番大切、とすることの所以である(笑)。
礼儀作法は相手が理解できないとき(言葉がわからないとかも含む)に最大の効果を発する。


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ブルージュの運河とボート




娘が撮影した運河を行くボートの写真。
ふぁっしょなぶりーに歪んでいるのはなぜなのだろう。







ところでこの観光用ボート、ルートバスになったらいいのになあ、とわたしは常々夢見ている。

ヴェネチアなどでは実際運行しているし...運河の規模が全然違うのは分かっている。ブルージュにもサッカー場があるからW杯を開催してはどうか、というのと同じような僭越さだ。

しかしこの季節は特に、ブルージュ旧市街の周りを取り囲む運河には、他の街や外国から個人の船舶が次々とやってきて通行しているのだから無理な相談でもないだろう。
運河の一部では、ブルージュが中世の栄耀栄華をあきらめて、その後は「死都」と呼ばれるようになった原因でもある土砂堆積の問題を取り除かなければならないが、現在の技術をもってすれば、何とかなりそうな気がする。


試しに来年の7月11日にボートバスを巡回させてみてはどうだろう。
ブルージュがヨーロッパいち豊かな都、と絶賛されていた時代に還って、フラマン人の自尊心をくすぐれば、このナショナリズム的な内容の記念日のイベントとして結構盛り上がると思うんだけど(笑)。


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苦手なもの




子どもの頃から姑根性が出来上がっていたわたしには、世の中に苦手なものがたくさんある。
読者の方はもうお気づきであろう、わたしのブログが鬱陶しいそのわけを。


テレビ、カラオケ、テーマパーク、遊園地、グループで行動する人々、キャラクターグッズ、占い、ファミリー向けの「全部込み」ホテル(クラブ・メ○ドとか)、バイキング形式の食事...

参加者がみな同じ方向を向いていて、それでも同じことをしているという自覚は薄く、ざっくばらん(最近はぶっちゃけ、と言うのか)で、何でもありで、それで居心地良く感じている、という状態が嫌なのだと思う。

大量生産と大音量とどぎつい色。「ぶっちゃけ」ること、我慢しないことが、個性の発露であるという勘違い。脇の甘さ。最も楽な服装。
彼らはフォークを握る時も、侮蔑を受ける時も、喜びを表す時も、とにかく騒がしい(と言ったのは誰だったか...失念)。


それでも、わたしが見ている世界と、カラオケや占いやテーマパークが好きな人が見ている世界は違っていて、そういう世界があって当然いいと思うし、わたしの方が正しいと主張するつもりも全くない。わたしがそういう場所を避ければいいだけのハナシである。

が、許せないものがある。

バイキング形式の食事である。

思えばあの食事スタイルに「バイキング」などと名付けられて、由緒正しきバイキングの人々は迷惑に感じているのかもしれない。

バイキング形式の食事は人間社会における悪徳の一つだ。


先日、あるそれなりのホテルで朝食をとったことを激しく後悔した。

一つの皿にオードブルからデザートまでを山のように盛って山のように残す客も客なら、大量のゴミを出すことを前提としている経営側も経営側である。そのホテルが花の都の格式を誇っていようが、内装が本物のロココで生け花がふんだんに飾ってあろうが、ウエイター氏が恭しかろうが、代金がバカバカしいほど高価だろうが、そんなものもかすんで薄汚く見える。
100円ビニール傘の販売と同じく、即やめるべきだと思う。

本当は悪いのはバイキング形式でも惨めなビニール傘でもなく、それを使う人間のあり方なのだが。



...とは言え、わたしは高速道路の渋滞に巻き込まれたとき、「みんな土曜日の朝からどこ行くねん。他にすることないんかい。」と毒づくタイプの人間だ。大衆を嫌う大衆。最低なのはわたし自身である。わたしが一番苦手なのはわたし自身なのだ。「自分だけが正しいことを知っている」「気に食わないものは全部なくしてしまえ」という人間が一番苦手なので...


いつ、いかなるときも、どんな人間に対しても「どうぞお先に」と、相手の都合や、価値観を優先して差し上げられるようになってから死ぬ、というのがわたしのテーマだ、と書いておこう。忘れないように。


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