異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

【感動の実話】強制収容所での死の運命から2,500名のユダヤ人の子供達を救ったポーランドの活動家 〔イミシン〕

2017-09-08 21:45:06 | 紹介

ひとりの看護師が2500人の子供のためにしたことを、絶対に忘れられてはならない、感動の実話!

 

出典: Irena Sendler.Una Heroína
記事:http://www.imishin.jp/irena-sendler/

強制収容所での死の運命から2,500名のユダヤ人の子供達を救ったポーランドの活動家 

イレーナ・センドラーは1910年2月15日、ポーランドのワルシャワで生まれました。

7歳のときにイレーナは父親を発疹チフスで亡くしています。そのため、イレーナが父親と過ごした年月はわずかでしたが、彼はイレーナの人生の大きな存在でいつづけました。とりわけ「助けを必要とする人に、いつでも手を差し伸べなさい」という父が残した言葉は、色濃く彼女の人生に影響を与えることになります。

成長したイレーナは医師であった父と同じ医療の道を選び、彼女は恵まれない家庭に衣食を提供する社会福祉科で看護婦になります。反ユダヤ主義が蔓延していた当時のヨーロッパで、イレーナは敬虔なカトリック教徒であったにも関わらず、宗教の壁を超え、偏見に囚われず、ユダヤ人家庭も他と同様に分け隔てなく支援しました。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、クローズアップ

第二次世界大戦が始まって間もない1939年、ナチス・ドイツがポーランドの首都ワルシャワにユダヤ人隔離地域(ゲットー)を造りユダヤ人を抑留しました。隔離地区の劣悪な生活環境に危機感を感じたイレーナは、積極的にゲットー内の環境の改善に向けて取り組む決意のもと、ジェゴタ(ユダヤ人救済委員会)の一員となります。ユダヤ人を取り巻く状況が悪化する中、イレーナの行動は自身の命の危険を伴うものであったにも関わらず、彼女の使命感は揺らぎませんでした。 

やがて協力者達と共にイレーナは密かにユダヤ人の子供達をゲットーから脱出させる手助けをするようになりました。身体抵抗力の弱い子供達にとって隔離地域に留まることは死を意味していました。
イレーナによって救出された子供達は、里親家族や児童養護施設に預けられました。しかし善意からの救出援助ではあっても、ユダヤ人の母親全員が進んで我が子を他人の手に委ねたわけではありませんでした。この時点では母親達は、子供達を預ける以外に方法はないこと、最悪の事態が待ち受けていることなど知る由もなかったのです。最終的に、ゲットーに抑留されていたほとんどの家族は死が待ち受ける強制収容所に送られることになりまうす。

 自動代替テキストはありません。

ゲットーがナチスのさらに厳しい支配下に置かれると、イレーナは脱出させる子供達を隠すため実に独創的な方法を考え出さなければいけませんでした。大抵の場合、重病患者が他の病院に転院する際に救急車の中に隠れて脱出させていましたが、監視が増員されて以来、イレーナは子供達をずだ袋やゴミ袋、果ては棺桶の中にまで隠して運びだすようになります。当時5か月だったエルツニアという少女は、木の箱に隠され、レンガの出荷に紛れて脱出しました。この幼い乳児に残されたたった一つの家族の遺品は、母親が彼女の服に隠した銀のスプーンだけだったといいます。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外

イレーナは2,500名以上の子供達を残酷な運命から救い出し、救出した全員の詳細を記録していました。記録を記した書類は瓶に入れ、近隣の住民の庭に隠し埋めました。

順調に進んでいたイレーナの計画は突如破綻します。彼女の活動に気づいたナチスに逮捕されたのです。イレーナは監獄に送られ、手足を骨折させられるなどのひどい拷問を受けました。激痛と精神的苦痛にもかかわらず彼女は拷問を耐え抜き、協力者や救出した子供達の居場所について一切の情報を漏らしませんでした。
最終的にナチスはイレーナから情報を聞き出すことを諦め彼女に死刑を宣告します。しかし運命はイレーナに別の使命を与えました。看護婦の支援者らが兵士に賄賂を渡し、彼女は解放されたのです。死刑寸前で一命を取り留めて以来、数年間を彼女は偽名で過ごしましたが、決して人々への援助活動を止めることはありませんでした。公式にはイレーナはナチス・ドイツが出した広報の中にある処刑された人々のリストに入っています。

自動代替テキストはありません。

 

世界大戦が終わると、イレーナは救出した子供達の記録を隠した瓶を掘り起こし、存命ユダヤ人救出団体に渡しました。子供たちを親元に送り返そうとしましたが、殆どの親は死亡、あるいは行方不明になっていました。

イレーナはのちに結婚し、三人の子供をもうけ、自分の行いが正しい選択であったとの思いを胸に暮らしました。「ユダヤ人の子供達を救出した理由は、私の幼少時代の家庭に端を発します。
恵まれない人々は宗教や国籍に関係なく、善意から援助されるべきとの信念を父から教えられました」イレーナは人生最後のインタビューで語っています。「“英雄”という言葉で呼ばれることに私は大きな抵抗を感じます。実は私はその反対なのですから。私はほんの少しの子供たちしか助けることができなかったことで良心の呵責にさいなまれて生きつづけているのです」

2007年のノーベル平和賞候補に選ばれたイレーナは、その一年後、生涯を人々の救済に捧げた98年の人生の幕を閉じました。彼女が1940年から43年までに救ったユダヤ人の子供たちの命は、2500人にものぼります。
ドイツ人のオスカー・シンドラーがドイツ国内で約1,200人ものユダヤ人を救ったことは、スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」によって世界的に有名となりましたが、イレーナの物語はいまだによく知られていません。自らの命や家族の命を危険にさらしてまで、死が待ち受ける強制収容所送りの運命から子供達を救い出した善行は、これから語り継がれ、決して忘れることはないでしょう。

 

 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、立ってる(複数の人) 自動代替テキストはありません。

 

**********************:
 
 
画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、テキスト 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、テキスト

 

 

 

 


ババァは反逆児(木内みどり)国会前・・・毎月3日は「「アベ政治を許さなあぁぁぁい!」スタンディングの日

2017-09-08 20:44:16 | 案内 情報 デモ 集会 逮捕

マガジン7 http://maga9.jp/midori170906/より転載

木内みどりの「発熱中!」

第43回:ババァは反逆児(木内みどり)

 
 

 右翼の街宣車。まぁ、なんて汚い声でなんて酷い言葉を使うこと。

 「そこのババァ、何立ってんだよぉ~。」「ババァは黙ってろ!」

 国会前での「アベ政治を許さない」スタンディング。毎月3日午後1時きっかりに国会前に「立つ」。

 2015年8月3日、作家・澤地久枝さんの提唱によって始まったこの抗議にわたしは可能な限り参加してきました。

 9月3日は暑くなく寒くなく湿度なく快適な快晴、でした。

 午後1時、時報のカウントと同時に「アベ政治を許さなあぁぁぁい!」と声を上げていきます。初めからはっきりしていた澤地さんのコンセプト、マイクを使わない、大声を出さない、「有名人」のスピーチなどナシ。みんなに知ってほしいから話したいという人は誰でも話してよい。

 午後1時に始めて1時半で終わり。

 参加者は年配の方が殆どで、60代、70代、80代。70%が女性、30%が男性。お世辞にも上手とは言えないコールや手作り抗議グッズ、例えば「アベ政治を許さない」と書いた布を被せた透明ビニール傘、白い団扇に「アベ政治を許さない」の文字とアベ氏の顔イラストなども、お世辞にも素敵とは言えない素人の手作りもの。わたしはこういうところが好きなんです。

 無理せず自分の出来る範囲で権力者に抗議する意思があることを表明する。

 心では同じことを考えていますとか、同じ考えですと言ってるだけじゃなく、それを外に表すことが大切。

 それは自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分の足で立つということ。これができていない人が多くいる、と思う。

 「アベ政治を許さな~~ぁい!」声を上げ始めてすぐに、右翼の街宣車が現れました。先頭の1台に続いて8台くらい、国会前の信号を無視して交差点内に停車し汚い声で私たちを罵り始めました。それぞれの車がマイクを通して言いたい放題。

 麹町署の警備の方が街宣車の人と言葉を交わしていましたが、彼らはまったく動じません。

 「そんなとこで突っ立てたって、何にも変わりゃしね~~んだよ、このボケ!」
 「ババァは家帰って孫の世話でもしてろっ」

 時々、手下の若者が「そーだ、そーだ」と合いの手を入れるのが間抜けで笑ってしまいます。

 「ババァ」「ババァ」と繰り返します。こちらには「ジジイ」もいるんですけど「ババァ」の連呼。よっぽどお母さんとの関係が良くなかったのかしら、自分のお母さんへの恨みつらみをこちらへ投げつけているようでふと、可哀想にも思いました。

 こちらの「ババァ」の反撃呟き。

 「そうだよ、ババァだからできるんだよ。ヒマだからできんの。できること、やってんの」
 「そこから降りてきなさいよ。ひとりでこっち来てもの言いなさい。それもできないクセに」

 もちろん相手に聞こえない範囲で呟いているのが、おかしくておかしくて。

 最近のtwitterでは「ライブ」という機能が付いているので、その機能を使って中継してみました。観てください。

 9月3日は澤地久枝さんのお誕生日。87歳!
 アナーキーでカッコいい澤地さんの言葉も聴いてみてください.




 そして、このおふたりを紹介したい。

 反逆児。作家・渡辺一枝さんとお名前を知らないけれどこの5、6年、反戦・反原発・反政府・反安倍などの抗議の場でいつもお見かけする女性。

 反骨の人。気骨ある女性。いつもいつも、ひとりで行動されている。

 「ババァ」だけれどね、右翼のお兄ちゃんやおっさん、この方たちはあんた達なんかよりよっぽど肝が据わってる「反逆児」なんざんすよ、っつう~の。

 
木内みどり
木内みどり(きうち みどり):女優。’65年劇団四季に入団。初主演ドラマ「日本の幸福」(’67/NTV)、「安ベエの海」(’69/TBS)、「いちばん星」(’77/NHK)、「看護婦日記」(’83/TBS)など多数出演。映画は、三島由紀夫原作『潮騒』(’71/森谷司郎)、『死の棘』(’90/小栗康平)、『大病人』(’93/伊丹十三)、『陽だまりの彼女』(’14/三木孝浩)、『0.5ミリ』(’14/安藤桃子)など話題作に出演。コミカルなキャラクターから重厚感あふれる役柄まで幅広く演じている。3・11以降、脱原発集会の司会などを引き受け積極的に活動。twitterでも発信中→水野木内みどり@kiuchi_midori

 

 

 

 


NHKドラマ『植木等とのぼせもん』9.2スタート・・・差別と戦争に反対し、治安維持法で逮捕された父・植木徹誠のことは描かれるのか?

2017-09-08 13:59:47 | 命 人権 差別


闇と光 * 差別と人権  池田市民の会/池田市民共闘/池田支部
http://hageguma.exblog.jp/25514510/

by hageguma  プロフィールを見る

に参加した植木徹誠は息子に人間平等の「等」と名づけた

植木等の父は治安維持法で逮捕されたドラマ『植木等とのぼせもん』今夜スタート…差別と戦争に反対し、治安維持法で逮捕された父・植木徹誠のことは描かれるのか?
2017.09.02 ©️ リテラ http://lite-ra.com/2017/09/post-3429.html

d0007721_19515718.jpg
 
d0007721_19515897.jpg


 本日、新ドラマ『植木等とのぼせもん』(NHK)の放送がスタートする。このドラマは、植木の付き人を務めていた小松政夫の自伝的小説『のぼせもんやけん』(竹書房)を原案とした作品で、映画『無責任』シリーズや「スーダラ節」で一世を風靡した時期の植木等とそのまわりの人々の人間模様を描くドラマだ。

 山本耕史が植木等を、浜野謙太が谷啓を演じてクレージー映画のカットを再現したり、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)の再現シーンでは、NMB48の山本彩が園まり、元℃-uteの鈴木愛理が奥村チヨ、中川翔子が伊東ゆかりを演じる歌唱シーンもあり、映画ファン・アイドルファン・昭和歌謡ファンから熱い期待を寄せられているドラマである。ただ、そんな登場人物のなかでも本サイトが最も注目したいのが、伊東四朗演じる植木等の父・植木徹誠である。
 徹誠は浄土真宗の僧侶で、被差別に対する差別反対や戦争反対を叫び、治安維持法で投獄されるなど波乱万丈な人生を送った人物として知られている。彼は1978年に83歳で亡くなるが、その人生に興味をもつ者は多く、等は1987年に父の人生をまとめた本『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日新聞出版)を出版している。

 そのなかで等は、若い頃キリスト教の洗礼を受けながら、その後に僧侶となり、しかもその間、社会主義者として労働運動や解放運動に取り組んでいった父に対し、彼流の言い方で「支離滅裂」と表しているが、その筆致からは、一貫して弱者に寄り添ったことへの確かな尊敬が読み取れる。
〈おやじはまた、日常生活においてもたぶんに「支離滅裂」だった。
 人間平等、解放、戦争反対を主張して、幾度となく検束され拷問を受けても、おやじは血を流しつつ節を曲げなかった。いつでも、どこでも、おやじは信じるところを叫んだ。その生き方は無垢な求道者そのものである〉
〈しかし人間とか人生とかいうものは、もともと逆説に満ち満ちているものなのだろう。一見、豪放な人間が実は非常に繊細であったり、粗野とみえた人間が心底やさしかったりする例は、身辺、枚挙にいとまがない。
 おやじ、徹誠の場合にしても、一見「支離滅裂」な言動に、貧しい、弱い、生身の人間に対する共感、という強靭な一筋の糸が通っていたことを、私は近頃、しみじみ感じているのである〉(『夢を食いつづけた男』より)


植木等の父は「戦争で死ぬな、なるべく相手も殺すな」と語った

 後に得度して徹誠となる植木徹之助は、1895年に三重県で材木商を営む家に生まれる。14歳のときに上京して真珠店の工場で働くようになるが、大正デモクラシーの空気が色濃いその時代、勤めていたその工場の寮で出会ったキリスト教と社会主義思想は彼に大きな影響を与え、労働運動などに参画するようになっていく。
 しかし、関東大震災で仕事を失い、また、その後の貧困で身体を壊した彼は、妻の実家である三重県の西光寺に身を寄せる。この地で差別の現実を目の当たりにして怒りを燃やした。またそれと同時に、親鸞の思想に出会い傾倒していく。
 その結果、彼は名古屋の本願寺別院で修行をし、徹誠と名を改めて三重県の朝熊に住み、その地にある三宝寺で住職としての仕事をこなしつつ、激しい差別反対闘争に身を寄せていく。
 なぜ、僧侶の徹誠が差別反対闘争に参加したのか? それは、いま生きている庶民たちを救済することこそが親鸞の思想だという立場をとっていたからだった。『夢を食いつづけた男』では、徹誠が三宝寺に着いた日、檀家の人たちに向かってこのように語ったと綴られている。
「私は死人の供養に来ましたが、同時に、生きている人びとの良き相談相手になるつもりでもいます。おたがいに友達同士として、苦しいこと、なんでも相談にきて下さい」
 時代はだんだんと戦争に向かっていく。そんななか、召集令状を受けた檀家の人がその旨を伝える挨拶に来ることもしばしばだったというが、そんなとき徹誠は、当時の人が絶対に言ってはいけないこんな言葉をかけていたという。
「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだから、なるべく戦地では弾のこないような所を選ぶように。周りから、あの野郎は卑怯だとかなんだとかいわれたって、絶対、死んじゃ駄目だぞ。必ず生きて帰ってこい。死んじゃっちゃあ、年とったおやじやおふくろはどうなる。それから、なるべく相手も殺すな」(『夢を食いつづけた男』より)
 僧侶としては至極当たり前の言葉なのだが、差別に反対したり戦争に反対したりと権力に楯突くことをしていた彼は、ついに治安維持法で逮捕されることになってしまう。


父の逮捕で“キョーサントー”“アカの子”といじめられた植木等は…

 徹誠は晩年になるまで、息子である等には逮捕された当時のことを話したがらなかったという。それは、その取り調べがあまりに苛烈で屈辱的なものだったからだ。皮チョッキを着たまま水風呂に沈められたり(皮は水を含むと縮むので胸が締め付けられて最悪の場合失神する)、「柔道の稽古」と称して何人もの警官から気絶するまで投げられ続けるということもあったそうだ。
 こういった人権無視の暴力的な取り調べを受けた徹誠も大変だったが、父が逮捕されてしまった等もまた大変であった。学校が終わったあと、父に代わって自分が檀家をまわったりといったこともあったし、また、父が思想犯であることをあげつらったイジメも受けた。「週刊ポスト」(小学館)2007年3月2日号には、当時受けたイジメについて語る等のこのような発言が掲載されていた。
「鬼ごっこをしていて、僕が鬼になるでしょ。すると“鬼さん、こっちこっち”って呼ぶところを“オイ共産党、共産党”ってみんなが呼ぶわけ。なんか自分のこと呼んでるなってことは分かるんだけど、“キョーサントー”なんて子供だから何のことか分からないでしょ。だから家に帰って“キョーサントーって何のこと?”ってお袋に訊いたのね。そしたら、“お前、どうしてそんなこと知ってるんだい?”って。“鬼ごっこしていて僕が鬼になったら、みんながキョーサントー、キョーサントーって呼ぶんだよ。キョーサントーって何のこと?”ってもう一度訊くと、“お金持ちはお金持ち、貧乏人は貧乏人って世の中は良くない。お金持ちも貧乏人もなく、日本全国みんなが同じくらいの収入で同じくらいの暮らしができるようになった方がいいというのが共産党っていうんだよ”と。
 それを聞いた僕は、“それはいいことじゃない”って子供心に思ったわけ。それからは、“キョーサントー”とか“アカの子”とか呼ばれても何とも思わなくなったよ」


父によるアドバイスがなければ「スーダラ節」は生まれなかった

 自らの思想に殉じて生きる父の活動は、植木家にとっては必ずしも良いことばかりもたらしたわけではなかったが、しかし、等はそれでも父に敬意の念を抱いていた。それは、芸能活動をするにあたって芸名を用いずに本名である「植木等」を用いたことにもよくあらわれている。彼は、父が確固たる思想のもとに名付けたその名を誇りに思っていたのだ。
〈三十の峠を超してから生まれた三男、私にはすんなり「等」と名づけた。絶対的平等が人間社会の根本だ、という理想を、いわば宣言したのである。私は、この名前を誇らしいと思っている。本名も芸名も、この名前一本でやっている〉(『夢を食いつづけた男』より)
 徹誠がもつこういった背景がどれほどドラマで描かれるかは未知数だが、ただ、このシーンだけは確実に入ると思われる逸話がある。それは、名曲「スーダラ節」にまつわるもの。もしも徹誠のアドバイスがなかったら、「スーダラ節」はこの世に存在していなかったかもしれないのだ。
 等が「スーダラ節」を歌うことになった際、「飲む、打つ、買う」に耽溺する男の自堕落な生活を明るく歌う歌詞があまりにも不真面目であることから、等は躊躇し、父に相談してみることにした。そこでこんな言葉をかけられ、歌うことを決意したという。「週刊プレイボーイ」(集英社)1990年12月18日のインタビューでこのように語っている。
「あのおやじならなんと言うか、と思って詞を見せたんですよ。「どうだい、おやじ、この歌、やろうかどうか俺は迷っているんだけど」と言ったら、「うーん、これは親鸞の生き様に通じる精神だ。地球上に人類が存在する限り永遠不滅の真理」だって。それで、どこがそうなんだって聞いたら、「わかっちゃいるけどやめられない、っていうのがそうだ」って言う。腹を決めてやってこいって」
 徹誠は「スーダラ節」の歌詞から、人間の欲望も含めた「生きること」の肯定を読みとったのだ。今夜スタートのドラマでも、是非ともこの父について多く描いてもらいたい。
(新田 樹)
 

 

 

 

 


アベノミクスでは国民が豊かさを実感できない理由ー井手英策・慶大教授インタビュー〔ダイヤモンド・オンライン編集部 2017.9.6〕

2017-09-08 00:21:50 | 経済 金融

DIAMOND onlinehttp://diamond.jp/articles/-/141031より転載

2017.9.6

アベノミクスでは国民が豊かさを実感できない理由

井手英策・慶大教授インタビュー

Photo by Yoshihisa Wada

内閣改造で求心力回復を狙う安倍政権だが、「アベノミクス」も一時の勢いはなく、国民は豊かさを実感できていない。井手英策・慶応大教授は「日本は多くの人が貯蓄をする余裕がない経済構造に変わったから」と分析する。民進党の政策ブレーンでもある井手教授に、今後、取るべき経済政策、アベノミクスへの対抗軸の具体案を聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン特任編集委員 西井泰之)

成長追求型の経済政策は限界
景気拡大と暮らしは別のもの

――景気拡大局面が続き、雇用も完全雇用状態だというのに、多くの人が実感できていません。

 好景気が長く続くことと、人々の暮らしが良くなることは別のものになっています。戦後最長の景気拡大局面だった小泉政権の時もそうでした。

 世帯当たりの可処分所得は97年をピークに減り続けています。世帯収入300万円以下が全体の33%、400万円以下だと5割近くに上ります。

 共稼ぎが増えているから、世帯では働く人は増えているにもかかわらず、収入はむしろ減っているのが現状です。年収300~400万円は決して貧困層ではありませんが、子どもが何人かいて大学に行かせようと思うと家計はかなり厳しくなります。豊かさの実感がないのは当然でしょう。

 家計調査の勤労世帯実収入は安倍政権になった2013年から4年間で0.6%増です。仮に毎年1%ずつ増えても、12年かけてやっと97年の水準に戻る計算です。つまりアベノミクスより桁違いの成長や収入増があっても、10年以上かけて20年前の収入に戻る。今からだと12年後に、30年前の水準に戻るわけです。アベノミクスの効果は多少あったかもしれませんが、「これだけ収入が落ちた人々の生活を、成長だけに頼らずに回復できるのか」という問いを立てるべきなのです。

――景気や企業業績と人々の生活はどうして別のものになったのでしょうか。

 97年は、日本の経済や社会の歴史的な転換点でした。日本経営者連盟(日経連)が長期安定雇用などの日本的経営からの転換、「新時代の日本経営」を打ち出したのが95年ですが、97年ごろから賃下げや雇用の非正規化が進み始め、キャッシュフロー重視や内部留保依存型の経営に転換していきました。

 さらに消費税増税と金融危機が重なって、消費が落ち込み、売り上げが減った企業はさらに賃金を抑えた。経済のグローバル化が加速して、企業は海外での生産にシフトしたこともあります。

 こうした構造変化のもとで、アベノミクスはよくやっている方かもしれません。しかしそもそもの話、成長を前提とする政策発想ではもう限界に来ているのです。多くの人にとって貯蓄ができない経済構造になってしまったことが大きな問題といえます。

預貯金で安心を買えなくなった
「頼り合える社会」にすべき

――かつてのような成長や収入は望めないということでしょうか。

 日本人は一所懸命働き、所得を得て貯金をし、それで将来の安心を手に入れる、自己責任の社会を生きてきた。しかし今マクロで見ると家計の貯蓄率はほぼゼロ。家族が2人以上の世帯の3割、単身世帯の5割が貯蓄ゼロというデータもあります。

 貯蓄ができなくなって将来不安を覚えるから消費は増えないし、結婚や出産まで諦めてしまう。つまり、かつてのような生き方が難しくなっているのです。無論、成長して貯金が増えるならいいのですが、私は無理だと思っています。

 そういう意味で今の時代に、政党が成長戦略を競い合うというのは非常にズレています。成長や貯金が難しくなった時代には、成長政策と暮らしの保障を切り離し、政治や政府は後者、つまり人々の不安を取り除く役割、努力を強めるべきです。

 具体的には、一人ひとりが銀行などに預貯金をして安心を得ていたのを、預貯金をする代わりに税金で払って社会全体の蓄えにする。政府はそのお金を使って、介護、医療などの社会保障や教育、子育てのサービスを提供する。そうすれば、自分の子どもが大学に行きたいといった時に不安にならずにすむし、一方、介護などで困っている人たちにも良質なサービスが提供できるはずです。

 日本人は「頼るのは悪いことだ」と思う傾向がありますが、取り巻く環境の影響により、自助努力だけで無理なのであれば、みんなの生活が厳しいのなら、もっと頼り合っていいのではということです。

――「共助」社会ということですか。

「共助」や「共生」は、“共”に助け合うことを言います。しかし、金持ちから税を取って貧しい人を助けるのが共助だという風に誤用されてきました。だが特定の層が負担し、ある層が一方的に受益者になるのは生物学的には「寄生」です。

 私が言う「頼り合える社会」は格差是正至上主義とは違う。金持ちも貧しい人も同じ人間なのだから区別しない。子どもを大学に行かせる時はみんなお金の心配をせずに行かせられるし、介護が必要なときもみんなが受けられる。税を払うことで、痛みと受益を分かち合うのが基本です。

 もちろん税を払えないような貧しい層への支援は重要です。給付付き税額控除制度や住宅政策は大事な論点です。ですが、それはあくまでも補完的なもの。多くの人が生活苦に怯えている、日本全体の危機ですから、困った人をただ助けるというだけでは、みんなが反発してしまう。だから誰もが負担者であり受益者という制度にするのです。

税金を払ったことが
受益につながる体験が重要

――財源はどうするのですか。いわゆる「大きな政府」になることに賛成は得られますか。

 誰もが負担するということでは消費税がひとつの軸になります。税率も欧州の国と比べてまだかなり低い。ただ逆進性の問題はありますから、それは累進税率の所得課税とセットで考える必要があります。

 消費税率を上げる一方で、所得税の最高税率や、企業所得、配当所得への課税や相続税などでバランスを取る。税の持つ特性を生かす税の“ベストミックス”で財源を確保するのです。

 税の負担率で言うと、欧州の平均水準はドイツで、一番軽いのは英国ですが、まずはドイツと英国の間ぐらい、国民負担率5割をめざす。日本はいま、負担は英米並みに低い「軽負担」ですが、「中負担」までもっていくのです。

 この水準の負担であれば20兆円ぐらい税収が増える。その使い方次第では将来不安がかなり解消されます。社会保障や教育といった人間が生きていくのに必要な分野へのサービスを供給すれば、雇用も増えますし、安心してチャレンジできますから、結果的に成長を誘導することにもなるのです。

――しかし税が自分たちのために使われるのか、税の使われ方について根強い不信感があります。

 大事なのは、負担をした分は受益もあったという成功体験を社会で共有することです。その好機はすぐにあります。

 消費税率が2019年10月に8%から10%に引き上げられる予定です。この2%のうち1%は貧困対策、1%は財政再建に使われることになっています。これでは中間層にとって何のメリットもないただの負担増です。

 貧困対策は必要だとしても1%分を子育てや介護に使えば、私の計算では、介護や保育園、幼稚園といった子育ての自己負担分は相当軽くなる。子育て世代やお年寄りはもちろん、子どものいない人も老後、子どもに面倒をみてもらわなくても介護が受けられる。「負担は受益につながる」と、実感するようなやり方が大事なのです。

 増税の話になると、「政府を信頼できない」という議論が必ず出てきます。これは政府に対する信用度が、日本の場合、極端に低いことに起因しています。国際的な調査でもはっきりと出ています。しかし信頼できないなら、国民はもっと政府を監視しなければいけません。

 これまで大勢の人と話してきましたが、消費税を5%から10%に上げるうち、ほとんど人が増税の使い途がどうなっているかを知りませんでした。政府は増税の使い途を議論していたのに、国民はその使途を知らない、考えない。信じられない政府をチェックしない、ほったらかすというのは民主主義の“自殺行為”です。

民進党は対抗軸の担い手に
古いリベラルでは勝てない

――民進党の政策ブレーンとしても活動されていますが、民進党に何を期待されているのですか。

 大事なのは民進党を勝たせることよりも、対抗軸を作ることだと思っています。自民党からもお誘いはありましたが、自民党は成長前提の発想から変われないだろうし、新しい選択肢を作って国民が選べるようにしたいのです。

 その意味では、今回、民進党の新代表に、前原(誠司・元外相)さんがなったのは大きな可能性を感じます。代表選では消費税増税を明確に言って、みんなで負担してみんなのために使うのだと、そういう旗を掲げた。それが党内でも幅広い支持を得たからです。

 ただ、圧勝したからといって気を抜いてる場合じゃない。依然、消費税は逆進性があるからだめだという人、金持ちから税をとって、困っている人に配ることを良しとする古いリベラルの発想から抜け出せない人、あるいは増税をそもそも嫌がる人も一部にいます。

 その点では、税を通じて社会全体で貯蓄して、みんなのために使うという発想を党内にしっかりと根付かせないといけない。前原さんの責任、役割はとても大きいと思っていますし、勝ったからこそ、いま一度、丁寧な議論を行うことが大事なのではないでしょうか。

 

 【関連記事】

政府が「戦後2位のいざなぎ景気に並ぶ景気回復」をアピールしています。
しかしこれは、安倍政権の意向を忖度した内閣府の不正による「偽りの成果」です。
MAG2.COM