マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大宇陀・拾生の稲荷寒施行の聞取り

2017年11月15日 08時57分10秒 | 楽しみにしておこうっと
大宇陀・万六の自治会館でゆったり落ちつかせてもらっていたときである。

万六のカンセンギョ(寒施行)巡拝中にさまざまなことを教えてくださったⅠさんが飛び込んできた。

まさに、そんな感じだった。

今、行けるのなら隣町の拾生(ひろう)の住民を初回したいと云うのだ。

拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)を取材するなら、この人に話しを伺え、ということで口利きしてくださったM家に急行する。

Mさんは平成18年6月に発足した大宇陀まちおこしの会の代表者になる会長さんだ。

会の担当者はなにかにつけて宇陀・松山のことを教えてくださるUさんである。

拾生(ひろう)自治会の軒数は17軒。

街道沿いに商売をしているお家。

昔は街道に建つ家、皆が商売繁盛であったが、減債はたったの3軒になってしまったという。

元々は二つの拾生であった。

町屋にある地区は松山の拾生。

旧村にあたる神戸(かんべ)地区の拾生の2地区である。

拾生は万六(まんろく)と上新(かみしん)の間の区間。

そこをただ単に拾生と呼んで、向こうも拾生。

川向うとこっちと真っすぐ分かれているが、入り込んでいるところもある、というから実にややこしいことであるが、整理すれば、現町屋の松山町と宇田川西の元農村部神戸(かんべ)村が統合されてできた町ということである。

大宇陀中学校の跡地は市場にあたる。拾生は旧の町だった。

松山城の築造。

城は秋山城にくら替えになったときに旧町から新町名になった。

そのときによろづ町と呼んでいた「万」地区にろっけんしょう(六軒庄であろうか)呼んでいた「六」地区が合体して万六地区ができた。

合併というか、町が統合されて町名を一本化したわかりやすい事例を話してくださる。

ちなみに一番にお聞きしたかった拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)。

その件にさしかかったころにお客さんが来られた。

約束事のお客さんだけに退席したが、万六で若干の話しを聞いていたのでメモを残しておく。

稲荷寒施行の実施時期は、大寒期間中であるが、だいたいが2月1日前後の日曜になるらしい。

この年の実施日はすでに決まっている。

月末の日曜日の1月29日である。

施行に出発する時間帯は2回(2組み)に分けている。

そのわけはといえば、子どものことを考えた上でのこと。

夜間についていく子どもが施行をする場合は危険性があるという山は若い者がセンギョ(施行)する午後1時。

もう一組が出発する第二部は日が暮れた時間帯の午後6時。

出発地は大願寺からになるらしい。

センギョ(施行)に供える御供は赤飯のおにぎりにアゲサン、煮干し。

万六の会所で話してくれたある婦人の話しによれば、伺ったMさんの意向で奥吉野名物のサバメシのオニギリにしているようだ。

また、万六の“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人の話しによれば、ドンゴロスの袋に御供を入れて、オーコ担ぎで廻っていたようだと話していた。

今年の日程は明日。

二日続きの施行は身体に無理をかける。

来年の楽しみにさせていただきたいと伝えて退席した。

ちなみに、その29日に行われたことを記事にしているブログが見つかった。

会長家で伺った件や、取材した万六施行のことを伝えたい人が居る。

前述した・・会の・・人であるUさん宅を訪ねる。

記した私のノートにこうある。

「もともとは高原(3代目)の稲荷講。野生の里山は獣の生活区域。供え物は寒中に供える。町に下りてこないように供える」と・・あるからUさんが話したことだと思う。

(H29. 1.28 記)